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読売日本交響楽団 第620回名曲シリーズ/第586回定期演奏会|藤原聡

読売日本交響楽団 第620回 名曲シリーズ
読売日本交響楽団 第586回 定期演奏会

Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)

 

♪読売日本交響楽団 第620回 名曲シリーズ
2019年3月7日 サントリーホール
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
指揮:シルヴァン・カンブルラン
フルート:サラ・ルヴィオン
コンサートマスター:長原幸太

<曲目>
イベール:寄港地
イベール:フルート協奏曲
(ソリストのアンコール)
ドビュッシー:シランクス
ドビュッシー(ツェンダー編):前奏曲集(日本初演)
ビュッシー:交響詩『海』

♪読売日本交響楽団 第586回 定期演奏会
2019年3月14日 サントリーホール
Photos by 青柳聡/写真提供:読売日本交響楽団

<演奏>
指揮:シルヴァン・カンブルラン
ヴァルデマル:ロバート・ディーン・スミス
トーヴェ:レイチェル・ニコルズ
森鳩:クラウディア・マーンケ
農夫・語り:ディートリヒ・ヘンシェル
道化師クラウス:ユルゲン・ザッヒャー
合唱:新国立劇場合唱団
合唱指揮:三澤洋史
コンサートマスター:小森谷巧

<曲目>
シェーンベルク:グレの歌

2010年以来読売日本交響楽団の常任指揮者を務めて来たシルヴァン・カンブルランが、いよいよこの3月のコンサートでその9年間の任期を終える。長年このオーケストラをある程度定期的に実演で聴いて来た筆者だが、カンブルランが着任してから明らかに読響は変化した。デュトワがN響にもたらしたそれに並ぶ効果と思うのだが、技術的には高度ながら音色のパレットが少なく、リズムに遊びがなく、作品ごとによる様式の相違に見合った柔軟な対応という意味でいささか物足りなかった読響がカンブルラン着任後徐々に変化を見せたのだった。
最初にそれを感じたのは2010年7月のメシアン:『鳥たちの目覚め』やデュティユーの『メタボール』を演奏した際。特に後者では下手な演奏にかかるとくすんだ響きに陥りがちであろうところ、誠に鮮やかな音色(おんしょく)が耳に飛び込んで来たのである。これで既に「今後も何かやってくれるだろう」との期待が強まったのだが、その後下記掲載の2011年9月におけるベルリオーズ:『ロメオとジュリエット』でその成果がさらに上がっていることを確認。その後の快進撃については多くを語るまい。どのような曲を演奏してもカンブルランらしい美意識に貫かれながら作品のフォルムを歪曲することなく表出する。この指揮者の「引き出し」の多さは誠に驚くべきもので、一体どのような頭脳の持ち主なのだろうと毎回感嘆したものだ。ここでカンブルラン&読響の印象深かったコンサートを詳述する余裕はないが、筆者なりに印象に残っている演奏曲を他にも幾つか挙げさせて頂く。記録を全て引っ張り出して検討した訳ではないので、「ああ、そう言えばあれも良かった」というコンサートもあるかも知れないが(いや、ほぼあるだろう)。

2010年10月 ドビュッシー(コンスタン編曲): 『ペレアスとメリザンド』
2011年9月 ベルリオーズ:『ロメオとジュリエット』
2012年10月 ラヴェル:『ダフニスとクロエ』
2013年9月 ストラヴィンスキー:『詩篇交響曲』。尚、この際にはウストヴォーリスカヤのコンポジション第2番『怒りの日』という非常にユニークな作品――編成はコントラバス8本、ピアノ、打楽器(木製の箱)が――演奏されたのも忘れ難い。
2015年9月 ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』
2017年1月 ショーソン:交響曲
2017年1月 メシアン:『彼方の閃光』
2017年11月 メシアン:『アッシジの聖フランチェスコ』
2018年4月 ストラヴィンスキー:『春の祭典』
  Etc.

この3月のコンサートの話に移ろう。

7日はドビュッシーの『海』の2011年以来の再演も楽しみだが、カンブルランらしさは何と言ってもツェンダー編のドビュッシー:前奏曲集のチョイスにあるだろう。まずはこちらから述べるが、これは原曲のイメージを大きく刷新するユニークな編曲で面白い。中でも『パックの踊り』や『風変わりなラヴィーヌ将軍』などのユーモラスあるいは風刺的な曲では、その独特の楽器法――水を張ったたらいに小さな銅鑼を入れて叩く(ウォーターゴング)、トランペットのマウスピースをそれだけで吹く、トロンボーンのコミカルなミュート、コントラファゴットの効果的かつグロテスクな使用法など――でその音楽はかなり冗談音楽的なものに近接している。または『帆』においてオーボエと低弦でかしこまって開始されたその音楽、小シンバル、ヴィブラフォン、グロッケンなどの打楽器がアクセント、と言うにはかなり前面にしゃしゃり出て来て、これが楽曲の最後(五音音階)に至ってほとんど京劇の音楽のような様相を呈する。

元々何らかの詩的想念や心象風景に由来しながらも、ドビュッシーはそれを自身のフィルターを通して抽象化した。それは結果的にある種の批評性を獲得したのだが、しかし、ツェンダーのアレンジではその「発想源」がかなりあからさまな形で戯画化されて分かりやすく描かれ(少なくとも筆者はそう捉えた)、これが二重の意味での批評になっている。批評の批評である。ドビュッシーが異化したその元ネタがここでユーモラスあるいはシニカルに召喚される。やたらと妙ちくりん(失礼!)で時として割にありきたりなツェンダーのアレンジは、だから相当な確信犯であるが、そこから先をどう考えるかは聴き手次第。

コンサート前半のイベールに戻ろう。『寄港地』はイベールの作品中では最も有名な曲だが、しかし実演では意外にそれほど演奏されない。それだけにここでのカンブルランの演奏に期待していたのだが、結果的には非常にノーブルで繊細な演奏に仕上がっていて満足である。いわば観光絵葉書と言ってよいこの作品は、それゆえ楽曲のエキゾティシズムを強調するような方向でも演奏できるだろう。しかしカンブルランは表現を一切誇張しない。しなやかに細部を整える。第1曲の『ローマ~パレルモ』での弦楽五部が織り成す肌理細かい音の彩というかまるでミルフィーユのような美しい層はふるいつきたくなるほど。最後の『バレンシア』の高揚も節度あるもので、こう演奏されてこそイベールの趣味の良さも引き立つというものだ。

次は大きくオケの人数が減ってのフルート協奏曲。ソロのルヴィオンの名前は聞いたことがあれどその演奏は録音・実演通じて初めて聴くが、その演奏はとにかく「堅実」。正直に申し上げて音は特に美しい訳でもなければ豊穣な音量でもなく線が細い。技巧的にはソツはないが、ソロ奏者としてはいま一つの「華」があれば、というところ。アンコールの『シランクス』はさすがに聴かせたが、それでも筆者が度々親しんだランパルやゴールウェイ、パユらの演奏をどうしても思い出してしまう(健全でない聴き方ですかね…)。

そしてこの日トリのドビュッシー:『海』だが、これは全く文句の付けようがない。『波の戯れ』における瞬間ごとの微細なテクスチュアにおける色調の変化。全体として太い響きと流れの良さを獲得しながらも、例えば弦楽器群の低弦と高弦の響き及び全体に埋もれがちな木管群が音楽の局面に応じて素早く前景化/後景化する、というような細部の彫琢のコントロール力(『風と海との対話』練習番号60番からしばらくのバランス変化!)。各ソロ楽器の魅力を完全に生かしながらもそれが浮くことなく全体の中にしかるべく組み込まれていく。クライマックスの高揚も自然なものでまるでこれ見よがしではないが、そこにこの指揮者の卓越したセンスの良さと高い見識が伺える。今のカンブルラン&読響が到達した抜群のコンビネーションぶりが遺憾なく発揮された演奏だった。実演で接した『海』でも最高位の演奏。

14日は今期最大のハイライトであろう『グレの歌』。この曲の超巨大編成やら特異性/特殊性については様々なところで言及されているのでここでは書かない。いきなり演奏そのものについて触れよう。これはカンブルランにしか成し得ない演奏であると同時に、さすがのこの指揮者と言えども楽曲の巨大さのためか、もしくはオケにエキストラが多数出演していたのだろうか(この編成をオケが自前で揃えられるはずもない)、音響体としての透明度にはいささか欠けた印象がある。トゥッティの箇所のみならず、静かな箇所においてもしばしば混濁した響きが聴かれたのは意外。
そのような中でもカンブルランは、この曲を後期ロマン派の残照として捉えて肥大的にマスの迫力で聴かせる方向には行かず、シェーンベルクが既に無調に突入して以降に書かれた第3部以降の書法により親和性があるような精妙な響きを出現させていた―というよりも「させようとしていた」。ワーグナーからの影響を前面化させるのではなくユーゲントシュティル寄りとも言えようか。つまり、指揮者のやりたいことは明確に感じられるのだが、事情を勘繰ることはしないけれどもそれが例えば『アッシジの聖フランチェスコ』や『トリスタンとイゾルデ』の時ほどには結果として成功していない、と思える。

しかし、そういう面を考えてもトータルな演奏の魅力は絶大だったと書かねばなるまい。声楽陣ではまずマーンケの森鳩が群を抜いていた。深い声質で彫りの深い極めてドラマティックな歌唱を聴かせて圧巻。次は僅かな出番ながら道化師クラウスを歌ったユルゲン・ザッヒャーが見事。ゲルハルト・シュトルツェやハインツ・ツェドニクと言った性格的テノールを彷彿とさせるような真面目さの中の滑稽を描き出して秀逸。これに比べるとヴァルデマルのロバート・ディーン・スミスとトーヴェのレイチェル・ニコルズはやや物足りない。前者では18型巨大オケの咆哮の前には仕方ない面もあるとは言え、より強靭な声と表現が欲しかったところであるし(しかし意図して「叫ばない」歌にした側面はあるだろう。ペース配分及びカンブルランの意図?)、後者は過不足ないもののより突っ込んだ歌が望ましい。ヘンシェルはさすがにソツがない歌いぶりだが、語りはよりフリーなシュプレヒゲザングでも良かったかも知れない。正確ではあるが作曲者は多少の自由さを求めていたようであるし。
合唱は大健闘。人数は必ずしも多くなかったが、しかしオケに負けない歌を聴かせていた。何よりも精緻であり、例えば第3部の対位法に基づく男声合唱の部分などは音量面でオケに拮抗せんとしながらも大変にクリアであり、改めて新国立合唱団の卓越ぶりを痛感したのだった。

もとよりこれだけの大人数を要する作品ゆえ、録り直しの利く録音ならともかく、実演においてあらゆる面で完全な演奏などほとんど求むべくもない。そう考えた時、先に幾つかの難点を指摘したとは言えやはりこれだけの演奏を実現させたのはカンブルランの驚くべき力量によるものであろう。最後の『見よ太陽を!』における混声八部合唱の部分は録音で聴いても毎回理屈抜きに感銘を受ける箇所だが、実演ではなおさらである。最後のハ長調の和音がサントリーホールの空間に鳴り渡り、その余韻が収斂して行った後にはしばし呆然とした。

カンブルランはプログラム掲載のインタビューで「常任指揮者を退任することに悲しさを感じないのは、またお客様にお会いできるからです。決してお別れではありません。今後も音楽を共有していきましょう」と語る。この退任は1つの別れではあるが、同時に新たな関係の始まりでもある。カンブルラン&読響の旅はこれからも続く。だがひとまずはこう述べたい、ムッスィユー・カンブルラン、9年の間素敵な音楽をありがとうございました。

(2019/4/15)