東京交響楽団 第668回 定期演奏会|藤原聡

東京交響楽団 第668回 定期演奏会

2019年3月25日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
指揮:クシシュトフ・ウルバンスキ
ヴァイオリン:ヴェロニカ・エーベルレ

<曲目>
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲 第5番 イ長調 K.219『トルコ風』
(ソリストのアンコール)
プロコフィエフ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ ニ長調 作品115 第2楽章より
ショスタコーヴィチ:交響曲第4番 ハ短調 作品43

 

2013年より3年に渡って東響の首席客演指揮者を務めたウルバンスキ。その間にもこの指揮者の国際的なキャリアは拡がり続け、2014年にはベルリン・フィルへのデビュー、2015/2016年のシーズンからはNDRエルプフィルの首席客演指揮者に就任、また2015年には新進の若手音楽家に贈られる「レナード・バーンスタイン賞」を指揮者としては初めて受賞、とその勢いは留まるところを知らない(今シーズンはゲヴァントハウス管、パリ管へのデビューも決まっているそう)。キャリア拡大に伴い、それまで日本のオケに客演していた指揮者と関係が途切れたり疎遠になってしまうケースが一般的に散見されるが、こうしてウルバンスキが東響に戻って来てくれるのは大変に嬉しいことだ。しかも曲目がショスタコーヴィチの『第4』という畢生の大曲であればその期待はより高まるというもの。23日のカルッツかわさきに続き、同じプログラムでのサントリーホール公演を聴く。

前半はヴェロニカ・エーベルレとのモーツァルト『トルコ風』。オケの編成は8型を採用、指揮台はなし。その演奏はソロ、オケ共々タイトで硬質な響きを特徴とし、まろやかな柔らかさ、というよりは幾分ざらついた質感がある。多用されるノン・ヴィブラートもその印象を強めるが、表情もまた鋭角的なアーティキュレーションが特徴的であり、ここにはロココ的あるいはギャラント様式的な表現はほとんど感じられない、いわば辛口の吟醸酒のような味わい。

現代のホールでモーツァルトの楽曲を演奏する場合、敢えて大雑把に分けるならば昔ながらの大編成かつ豊穣な音楽を聴かせるか、あるいはピリオド様式が一般化した後のよりオルタナティヴな表現を採るか、に二分されるだろう。このモーツァルトは言うまでもなく後者だが、しかしこういう演奏であればより小ぶりなホールで体験したいところではある。どうしても大ホールの空間に音響が拡散してしまい、まとまった音像として客席に届いてこない憾みがある。

まあそれはそれとして、音楽的には大変に質の高い演奏ではあった。終楽章で中間部の後にロンド主題が回帰した際の表情の変化が素晴らしい。但し、エーベルレはこの後に弾かれたアンコールのプロコフィエフの方がより見事だったと言わねばなるまい。曲想がまるで異なるゆえ当然と言えば当然だが、ここでは起伏のあるダイナミックな表現でエーベルレの表現力の豊かさがよりダイレクトに伝わって来たのだった(但しあまりに技術的に滑らかなのでプロコフィエフらしい「棘」は余り感じられなかったが…)。

さて、後半のショスタコーヴィチは大変な名演である、しかし留保付きの。ウルバンスキの楽曲及びオケの掌握ぶりが尋常ではない。第1楽章冒頭からその音響のクリアさとマッシヴな迫力を二つながらに兼備しており、ここを聴いただけで極めてハイレヴェルな演奏だと即座に理解できよう。さらに特筆すべきは、この楽曲で頻出する突然のテンポと楽想の脈絡ない切り替わりの処理に際するこれ以上ない自然な処理である。繰り返すが、これは指揮者の楽曲理解とオケとの密な意思疎通がないと絶対に出て来ないような音楽である。

がしかし、と敢えて言うならば、この演奏は非常にスタイリッシュで洗練され、異質な要素の並列的なパッチワークで構成されているこの曲を分かり易いものとして提示することに成功している反面、曲の「異常さ」「異物性」がいささか薄れている。それでも十分に特異な音楽と感じられるけれども、この辺りに若干の物足りなさを覚えたと正直に記しておく。

例えば第1楽章展開部のあの異様なフガートとそれに続く第1主題の怪物的な変容による轟音の箇所も、音響自体は凄まじいのだがどことなくすっきりと洗練されていて腹の底に響かない。第2楽章終結部の、あの『第15番』の交響曲に自己引用されている打楽器の奇妙なアンサンブルも極めて抑制されていて効果が薄れている。または終楽章でのシリアスな音楽とふざけた道化の音楽の脈絡ない入れ替わりも表現のテンションが均されているのでいささか鮮烈さに欠ける。最後近くの2台のティンパニが活躍するこれも「唐突」な白々しくもある高揚にもアイロニーが感じられない。

ここまで書いてきて、それは旧ソ連の演奏家による演奏やら過去の巨匠の演奏を聴き過ぎているからこそ感じてしまう不満、と思わないでもない。演奏スタイルも当然時代と共に変化するのだからこういう演奏があっても良いとは間違いなく思う。音楽的な質の高さは疑う余地がないし。あるいは別の角度から考察すれば、このウルバンスキの表現の「軽さ」を、時代が経過したからこその相対化、もしくはショスタコーヴィチの『交響曲第4番』という作品自体のパッチワーク性をキッチュな軽み・遊戯性の発露と捉えれば―つまり作品自体が表現の内実を問題にすべきではなく、それ自体がメタであるという意味だ―、このウルバンスキの軽やかな(と敢えて言う)演奏も非常に説得力のあるものと思える。

この辺りに筆者なりの結論は出せていないが、演奏に対する不満を考えた時、どういう視点によるものかを分解して行くと決して一様ではないな、などと考えた次第。あるいは、こういう事を聴き手に考えさせるという自体が演奏の質の高さを証明していると言えるのではないか。

(2019/4/15)