都響スペシャル&第875回 定期演奏会Cシリーズ|藤原聡

都響スペシャル&第875回 定期演奏会Cシリーズ

♪都響スペシャル
2019年3月17日 サントリーホール

♪第875回 定期演奏会Cシリーズ
2019年3月31日 東京芸術劇場コンサートホール

Reviewed by 藤原聡 (Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi) 撮影:3月31日

♪都響スペシャル

<演奏>
東京都交響楽団
指揮:エリアフ・インバル
コンサートマスター:山本友重

<曲目>
ブルックナー:交響曲第8番 ハ短調 WAB108(ノヴァーク:第2稿・1890年版)

♪第875回 定期演奏会Cシリーズ

<演奏>
東京都交響楽団
ピアノ:サリーム・アシュカール
指揮:エリアフ・インバル

<曲目>
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番 ハ長調 op.15
(ソリストのアンコール)
シューマン:子供の情景 op.15〜トロイメライ
チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 op.64

 

エリアフ・インバル、ほぼ1年ぶりの都響登壇。今回最大の話題は、何と言ってもブルックナー:交響曲第8番をノヴァーク第2稿のスコアによって演奏することだろう(3月17日)。周知のように、インバルは本作を演奏する際には必ず第1稿を用いていた。一般的にお馴染みの第2稿に比べて、第1稿では第1楽章の終結部や第2楽章のトリオが第2稿と大幅に異なるが、他にも第3楽章の調構成やオーケストレーションもかなり違い、言ってみれば第2稿は「少し手を入れた」という次元の改訂ではなく、第1稿とはほとんど別の曲と言ってよい。

インバルは自ら明言するように「革命家」を好む。であるから、より円満にまとまり、全体的に有機的な構成感を獲得した第2稿よりも、作曲者の初期構想が渦巻き、いささか荒削りで洗練に欠け、まるで異質な部分部分の構成要素が生のままぶつかりあうかのような第1稿ーより前衛的であるとの形容が可能だろうーを常に演奏してきた。この度第2稿を取り上げた真意は寡聞にして知らぬが、それはどうあれ、これはインバルとしては極めて稀な機会であると言える。

で、演奏はどうか。インバル&都響は第2番以降のブルックナーの交響曲を全て演奏しており、そのほとんどを聴いている筆者は今回の第8がどういう演奏になるかはある程度予想がついていたと言えるのだが、果たしてその演奏は当初の想像をさらに超えたものとなっていた。

極めて骨太で量感ある低弦の響きを基調として、それに相対するかのように金管楽器を咆哮させる。各パートはそれらを踏まえた互いの力奏に拮抗すべく極めてハイポテンシャルな音楽を創るので、その相乗効果でオケ全体がガッチリと積み上げられ、ちょっとやそっとではまるで揺らぎもしない石造りの建造物のような趣を呈する。基本的にインテンポ気味で「溜め」を作らずに快速テンポで一気呵成に呵責なく音楽を煽り立てる。pの音量が基本的に「持ち上げられて」大きいこともあり、音楽は神経質な趣はなくとにかく豪快・剛直に響く。

…と書くと、何だかえらくドライなブルックナーではないかと訝る向きもおられようが、まさにその通り(苦笑)。第2楽章トリオに内省の色は薄いし、第3楽章もさらなる繊細さが欲しい。終楽章のN以降は余りに快速すぎやしないか、などなど。しかし、このドライさもここまで突き抜ければあっぱれとしか言いようがない。

確かに情緒やら、ブルックナーと言うとしばしば持ち出される自然や神との合一と言うような宗教的・法悦の感情とはまるで無縁な音楽ではあるが、しかしここには純音楽的な「快楽」があり、スポーティで均整の取れた構成美がある。もとより情緒に酔うのはインバルの特性ではないが、ここ最近のインバルは特にその傾向が強い。壮年期のこの指揮者の粘着質なモノマニアックさが内へ内へと籠もって行ったとするなら、不変であるところのテクスト自体への即物的なこだわりはここに至ってそのベクトルが外に向いていて、その音楽の輝きは類を見ぬほどだ。一見相当な変化のようにも見えるが、本質が別の表れ方をしただけだ。ともあれ、当夜の音楽の輝きを前にしては好きだの嫌いだのを超越して傾聴するしかあるまい。

終演後の客席は湧きに湧いた。2度もインバルのソロ・カーテンコールがあったほど。それにしても御年83のこの指揮者、年々元気になっているんじゃないかね。

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31日はチャイコフスキーの第5をメインとしたプログラム。この曲もまたインバルの十八番であり、都響では今回が4度目の指揮である。演奏については後述するとして、まずは前半のベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番から。

インバルと同郷のイスラエル出身であるサリーム・アシュカールがソロを弾いてのそのベートーヴェンは、非常に端正で落ち着いた演奏が展開されていた。例えばリズム的に快活さを打ち出すであるとか、軽やかな表情を意識して演奏するであるとかの効果には目もくれず、典型的な古典派の容貌とベートーヴェンらしい革新さが混合されたこの曲をいわば前者寄りでひたすら真面目に解釈していたように思う。個人的にはそれがいささか面白みに欠けた印象を与えないでもない。意外に音色が固く地味だったのは日本の代理店から持ち込まれたベヒシュタイン製のピアノのためなのかは判然としないが(筆者がアシュカールの実演に接するのは今回が初)、敢えて書いてしまうが全体によりピリッとした「冴え」が欲しいところである。

14型のオケを統御するインバルは、決し大風呂敷を広げ過ぎることなく上手くソロのスケール感に見合ったサポートを付けていた。改めて、この指揮者は協奏曲の伴奏が上手い(若き日のインバルに対してクラウディオ・アラウが協奏曲指揮者としての力量を絶賛していたことを思い出す)。アシュカールはアンコールにトロイメライを弾いたのだが、これも反復の表現が単調と感じられる。表情により繊細な変化とうねりが欲しい。このように、筆者にとって初のアシュカール実演での印象は余り芳しくないものになってしまったが、これは複数回聴いてみないことにはまだ分からない。その真価については現段階では判断保留。

後半は暗譜での指揮でチャイコフスキー(チャイ5では常に暗譜、全曲アタッカ)。最初から結論めいた事を書くならば、筆者が聴いた2009年の都響との実演時の演奏よりもさらに「マッチョ」(敢えてこのような形容詞を用いるが)になっていてたじろぐ。極めて直線的な演奏で、強奏時の剛直な響きはいかにも近年のインバルらしい迫力。第1楽章の第2主題や第2楽章も基本的にメロディを歌わせずいささかも情緒的ではない。フレージングは楽曲の生理に沿った合理的なものながら、まるで豪腕投手が一切の変化球を用いずにストレートでスバスバと快速球を放り込んで行くかの如く。いわば正確ながら味わいに乏しい。あるいは大きな斧で草薮の草をバッサバッサと切り倒しながら邁進していくような、という比喩でも用いようか。第3楽章のワルツにも儚さや影、憂鬱さの影はなく強面、となれば終楽章がどうなるかは書くまでもないだろうが、たいていの演奏では長調に変容したモットー主題が厳かかつ落ち着いて奏でられる冒頭で何かしら浄化したかのような面持ちを感じさせるものだが、ここにはそれよりも強固な前進性がある。ティンパニのクレッシェンドから突入した主部は極めて快速なテンポを取るが、冒頭ヴァイオリン群の決然とした力強いダウンボウから繰り出される鋭角的な音響は2016年9月のあのショスタコーヴィチ:第8の第4楽章におけるヴィオラの激烈な「マルカーティッシモ」を想起させるほど。ほとんど間髪入れずになだれ込んだコーダでは、それまでの表現のテンションが高いために、明確なクライマックスを感知させると言うよりは同じ気分のままという趣。最後の4音は意外にも溜めを持たせて終演。

なるほど、センチメンタルで憂鬱なだけがチャイコフスキーではないし、交響曲としての揺ぎない構成感/構築性を前面に打ち出したインバルの手腕は驚くべきものだ。しかし、ここからはほとんど筆者個人の好みの問題に帰結するかも知れぬが、ここまで剛直かつドライな演奏には、ある意味で驚嘆はするがほとんど共感はできない(筆者は基本的に「共感」ということを疑う/必ずしも良しとしないが、しかしこのチャイコ5は「やり過ぎ」であろう)。

ブルックナーの項にも記したが、インバルは基本的にテクスト主義者であって音楽外的な要素で外堀から埋めにかかるようなことは全くしない。これは昔から不変なのだが、例えばフランクフルト時代であれば粘り腰な姿勢で楽譜を丹念かつ舐めるように検証し、様々な表情記号やテンポの変化などを最大漏らさず冷静に掬い上げて行く姿勢が顕著であった(録音ではその側面がクローズアップされがちなので「インバルはクール過ぎる」などともしばしば言われたが、実演ではまるで異なる。クールで正確なまま狂気のテンションに入るのだ。いわばグノーシス的な二面性)、近年のインバルはそういった「読み」へのモノマニアックな執念が大きく減退し、その代わりに全体の大きな流れを優先した骨太の音楽を創るようになる。この変化が加齢による鷹揚さの産物なのかは分からないが――そんな変化をインバル自身に尋ねても「私は別に変わっていない」または「変わったとしても変えようと思って変わった訳ではない」と答えるだろう。事実、マーラー演奏の変化についてご本人に訊いたことがあるが、「意識はしていないが変化して当然で、その時の最善の演奏をするだけです」というような答えであった――、筆者は(以前にも書いたことがあるが)インバルの本領は壮年期の演奏により顕著に表れていると考える立場にて、最近の単一次元に収斂していくかのようなそれには疑問を感じることもしばしばある。

しかし、それでもそんなインバルの変化――今でもまだ!――を見届けるのは単純に楽しいことだし、これからも若干の疑念に付き合いつつ、それでもたまに聴かせる「そうそう、これがインバルの凄さなのです!」という瞬間に立ち会うためにコンサートには通い続けることだろう。

(2019/4/15)