パリ・東京雑感|トランプからトルストイへ 二つの『反知性主義』|松浦茂長

トランプからトルストイへ 二つの『反知性主義』

text & photos by 松浦茂長

2年前、トランプのような男がなぜ大統領に選ばれたのか、狐につままれたような気持ちでいたとき、『反知性主義』という言葉を聞いて、ちょっと謎解きの手がかりを得た気がした。アメリカのキリスト教徒の一部には、昔から理屈っぽい説教を嫌い、信者の心に直接働きかけて陶酔させる催眠術的説教の伝統があり、これが『反知性主義』という言葉の起源らしい。
ともあれ『反知性主義』はますます威勢が良い。戦場でもマルクス・アウレリウスを手放さない読書家として知られるマティス国防長官が去り、トランプ政権から最後の『知性』が消えた。北朝鮮を攻撃すれば何十万の死者が出るとか、NATOや日本との同盟はアメリカにとって<損>ではないとか、当たり前のことをトランプに説く人がいなくなり、戦争が現実味を帯びてきた。『知性』不信はアメリカだけではない。フランスでは黄色いベストのデモ隊が、インテリの象徴のようなマクロン大統領を「ギロチンにかけろ」と叫んだ。イギリスは EU離脱という自殺行為のタイムリミットが迫っているのに、ピストルで死ぬか首つりか自殺の方法をめぐって果てしない議論。日本の国会も深刻な『知性』欠如に陥っている。

トルストイ

不穏な年になりそうないやな予感、気の滅入るような視界の悪さだが、ちょっと視点を移してみよう。『反知性主義』という言葉には実は良い意味もあるのだそうだ。イエスは律法学者や祭司といったユダヤ教のエリート・権威を敵に回し、漁師や娼婦や収税人に愛を説いたラディカルな『反知性主義者』。親鸞は比叡山の教学体系を捨て、念仏ひとつを選んだ『反知性主義者』。国際基督教大学の森本あんり教授は、ルターもその一人に数えている。熱狂的清貧を実践したアッシジの聖フランシスコは中世の代表的『反知性主義者』だろう。
現代にまで影響を与える良き『反知性主義者』は誰だろう。まず思い浮かぶのはトルストイではないだろうか。彼は「シェークスピアが四流の作家にさえ入れられないことを証明しよう」とし、「第九交響曲は人を離反させる作品である」とベートーヴェンを断罪した。世界文学の頂点とも言うべき『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』を書いたことについても「芸術は人生の装飾にすぎない、人生のいざないにすぎないということが、私にはわかったのである。しかも人生は私にとって魅惑を失ってしまったのだ。」と言い、芸術に人生の意味を求めるのは「欺瞞」だったと懺悔している。トルストイの芸術論を読んだのは高校生の時だっただろうか、生意気に「彼は小説家としては一流だが、抽象的思考は幼稚だ」と片付けてしまった。なんと浅はかな!トルストイの思想のダイナミズムが分かっていなかった。
トルストイの説いた非暴力はガンジーに受け継がれ、キング牧師、南アフリカのマンデラにインスピレーションを与えた。非暴力はインテリの非現実的な夢想ではなく、実際に政治をひっくり返す力のある<役に立つ>思想だったのだ。実力による抵抗の方が現実的に思えるが、パレスチナ、クルド、バスクを見れば惨憺たる失敗の連続。むしろ非暴力の方が成功の確率が高い。現代史によって、非暴力=悪をもって悪と闘ってはならないという思想の有効性が証明されたのである。

モスクワで会見するダライ・ラマ(1994年)

モスクワ赴任中、ダライラマの記者会見があり、「クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に対し世界は何をすべきですか」という質問が出た。ダライラマの答えは「悪がここまでひどくなったとき、外から介入すると悪を一層ひどくするだけです」という消極主義。欧米の記者はがっかりしたに違いない。内戦に巻き込まれた市民の苦境を知ったら「なんとかしてあげたい」と焦る気持ちになるのは当然だし、独裁者が国民を殺戮するのを見れば、<人道的介入>を求める声が出るのも当然だ。しかし旧ユーゴで、シリア、リビアで、外国の介入によって国民の苦しみが軽くなっただろうか?

ロシアの農家

トルストイの民話に『洗礼(なづけ)の子』というのがある。旅人に洗礼(なづけ)親になって貰って洗礼を受けた貧しい農家の子が成長し、洗礼親探しの旅に出る。洗礼親は立派な宮殿に住んでいた。彼は少年に好きなように暮らして良いと言い残して宮殿から姿を消す。洗礼の子は喜び一杯であっという間に30年が過ぎ、ある日、彼は禁じられた部屋に入ってしまう。まん中に金の玉座が据えられているので、彼が座ると部屋の壁が崩れ落ち、全世界の人びとのしていることがすべて見えた。
自分の家の畑を見ると、泥棒のワシーリイが麦を自分の荷車に積み込もうとしている。思わず「おとうさん、麦束を畑から盗んでゆくよ!」と叫ぶと、収穫が盗まれる夢を見た父が目を覚まし、ワシーリイを見つけ、なぐって牢屋へほうり込んでしまう。
次に洗礼母の住む街を見ると、彼女と一緒に寝ていた夫がこっそり起きて情婦のところへ出かけてゆく。洗礼の子は思わず叫ぶ。「起きなさい、あんたの夫がわるいことをしています」。洗礼母は飛び起きて、夫の行く先をさがし、相手の女を恥ずかしめたあげく、夫をうちから追い出してしまう。
最後に自分の母の方を見た。泥棒が入ってきて、母親が叫ぶと斧で殺そうとする。洗礼の子は持っていた笏を投げつけると、泥棒のこめかみに当たって即死。その瞬間元のように壁が戻り、ドアが開いて洗礼親が入って来る。そしてこう言って叱る。
「おまえは悪いことをした。それはこの世にたくさんの悪いことをつけ加えたことだ。もしおまえがもう1時間この上にすわっていたら、世の中の人間の半分を滅ぼしてしまっただろう」
洗礼親が彼をまた玉座に座らせると、壁が倒れ、何もかもが見えるようになる。そこで洗礼親は言った
「さあ、こんどは、おまえが自分の父親に何をしたかを見るがいい――ワシーリイは、1年牢屋にはいっている間に、今ではいろんな悪いことをおぼえて、手のつけられない男になってしまっている。そして、おまえのおとうさんのところから馬を二頭盗み出したうえ、うちに火をかけようとしている。おまえが自分の父親にしたのはこういうことだ」
続いて、洗礼母と元夫と情婦の三人が身を持ち崩しどん底に落ち、自分の母が殺人の罪を嘆き悲しむ姿を次々と見る。
洗礼の子は、「人が悪を追いまわせば追いまわすほど、悪はますますふえひろがる」ことを悟り、どうすれば悪を取りのけることが出来るかを見いだすまで、贖罪の生涯を送る。

モスクワ近郊の森

洗礼の子が思わず叫んだ気持ちは、人道的介入の動機と同じだし、母親を殺人者から守る行為は正義だ。善意、同情、正義による行為が悪を増殖するとは!文明社会の基盤を崩すような恐ろしい思想ではないか。

トルストイは小説『クロイツェル・ソナタ』の中で音楽の恐ろしさを呪っている。これも文明世界の常識に対する挑戦だ。「音楽というものは恐ろしいものです。人の話では、音楽は人の魂を高めるような作用をするということです。出鱈目です。嘘っぱちです。音楽はわたしをして自分を忘れさせ、自分の真の位置を忘れさせます。わたしを駆って何か別の自分のでない位置に連れて行きます。……このクロイツェル・ソナタのプレスト楽章などを、デコルテを着た婦人の大勢いる客間なんかで演奏していいものでしょうか!あれを弾きそれを喝采したりしたあとで、アイスクリームをたべたり、世間の噂話を喋りあったりして、いいものでしょうか?何物によっても表現されないエネルギーや感情を、時と場所柄を考えずに挑発したら、それこそ破滅的影響を齎さずにはおきませんよ。」
洗礼の子の善意が父母の破滅を招いたように、クロイツェル・ソナタの美は主人公を妻殺しへと誘う。美にはそれほどの毒が秘められているのだろうか。ロマン・ロランは「ベートーヴェンはおそらく、彼のファンたちに愛されるよりもトルストイに憎まれるほうが満足だったかもしれない」と書いている。

トルストイが今の世界を訪れたらどう考えるだろう。不正規雇用、低賃金、過労……働く人の人生がむしばまれる一方、企業のトップは何億、何十億の年収を恥じない。地球全体が貪欲の狂気に取り付かれ、消費の熱に浮かされているのを見て、一世紀半の間に人間がこれほど愚かになるものかと驚くに違いない。フランスの黄色いベストもトランプに投票したアメリカ人も、その心情はネオリベラリズムと呼ばれる狂気への怒りなのだと同情するかも知れない。しかし、彼らのやり方では悪に悪を加えるだけ。どうすれば悪の連鎖を断ち切ることが出来るのか?ローマ法王はクリスマス説教で「たくさんモノを持つことだけが人生の目的になってしまった。飽くことない貪欲が時代を貫いている。」と消費主義の悪を非難し、「もっとシンプルな生活を」と説いている。トルストイも欲のないイワンのばかが悪魔に勝つ話を書いたが、現代の悪魔はずっと手強そうだ。

(2018年12月30日)