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紀尾井ホール室内管弦楽団 第113回定期演奏会 |藤原聡

紀尾井ホール室内管弦楽団 第113回定期演奏会
ホーネックのモーツァルト選集Ⅱ

2018年9月21日 紀尾井ホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by ヒダキトモコ/写真提供:新日鉄住金文化財団提供

<演奏>
指揮、ヴァイオリン:ライナー・ホーネック
ヴィオラ:今井信子(※)
コンサートマスター:千々岩英

<曲目>
モーツァルト:
  ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 KV364(320d)(※)
  セレナーデ ニ長調 KV250(248b)『ハフナー・セレナーデ』
(アンコール)
モーツァルト:行進曲 ニ長調 KV249

 

昨年9月のⅠに次いで今回がⅡとなる「ホーネックのモーツァルト選集」。前回のプログラムは『第1ロドロン・ナハトムジーク』というモーツァルトのディヴェルティメントの中でもいささか知名度の劣る―しかし素晴らしい―作品をメインに据えたものであったが、今回はその長大さゆえ実演ではさほど演奏される機会のない『ハフナー・セレナーデ』がメイン・プログラムとなる。ディヴェルティメントやセレナードといったいわば「機会音楽」の方が、「強固なリーダーシップを以ってタイトに統率するのではなく、オケのメンバーの自発性を生かしながらそのONE OF THEMとして方向性を築いていく」ホーネックの音楽性に向いているとも思える(それを自ら意識しての選曲なのかは定かではないが)。そして前半は名手・今井信子を迎えての協奏交響曲、モーツァルト・ファン垂涎の一夜。

その協奏交響曲ではソロとオケ共々非常にカッチリとまとまりの取れた演奏が展開された。当然の事ながらホーネックはソロを弾くので通常の意味での指揮者はいない。コンサートマスターは千々岩英一だが、ここではオケをまとめる役割に終始(指揮者のいない協奏曲演奏なのである意味致し方ないのだろう)。つまり、先述した「カッチリとまとまりの取れた」というのは、破綻なく合奏はまとまっていたし全体の均整も取れていたのだが、それ以上の音楽的感興にはいささか乏しいという意味でもある。2人のソロは極めて美しいし表情も豊かなのだが(第2楽章の情感などは見事なものだ)、しかしオケがそれに追い付いていないといった感じがするのだ。オケをも含めた全体の印象としては、良い意味でも悪い意味でも「模範的演奏」(優等生的と言い換えてもよい)といった感。

しかしながら、後半の『ハフナー・セレナーデ』でコンサートマスター席にホーネックが座るや、オケの生彩がまるで違う。リズムには弾力があり、フレージングの切れ味も鋭い。第1楽章や第8楽章の主部などはその意味で実に素晴らしい。表情も前半とは違って非常に豊かで濃厚で、ここでは改めて紀尾井ホール室内管の優秀さ―特に弦楽器―を思い知らされることとなるのだが、これはライナー・ホーネックが身をもってVn群及びオケをドライヴした結果として、たとえオケの前に指揮者がいなくとも「指揮者」として機能足りえているという事実の明快な証明となる。
ここまで書いて話はやや脇に逸れるが、オルフェウス室内管弦楽団というアメリカの団体がある。指揮者を置かずに解釈を合議制によって決定する団体である。彼らの演奏は非常に上手いのだが筆者には面白みに欠けると感じられる。勿論当夜前半の協奏交響曲における指揮者不在とオルフェウスのそれとは意味合いが異なるが、出て来る音楽に「+α」が欲しい、ということでは同じだ。今さらながらオーケストラにとっての「指揮者」の役割というものを考えることになった次第。
「ハフナー家に集まった音楽家たちはこの曲を演奏しながら入退場しました」とのスピーチの後でアンコールとして演奏されたのはモーツァルトの『行進曲 ニ長調 KV249』。その話をなぞるようにして演奏終了間際に席を立って弾きながらステージ袖に引っ込むホーネックに会場からは笑いが起きる。

ホーネックが紀尾井ホール室内管を指揮した演奏では、昨年4月におけるストラヴィンスキーの『バーゼル協奏曲』とハイドンの『十字架上のイエス・キリストの最後の七つの言葉』が相当な名演として記憶に残っている。この際にもバッハのVn協奏曲を弾いたのだが、紀尾井では敢えてソロでもコンマスとしてもVn演奏を封印して指揮1本でもっと様々な曲を演奏して欲しい。ホーネックのVn演奏の良さは皆知っているが、それは別のコンサートで楽しみたい。純然たる「指揮者・ホーネック」を紀尾井ではもっと聴きたいと思う。

(2018/10/15)