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赤松林太郎 ピアノ・リサイタル|丘山万里子

赤松林太郎 ピアノ・リサイタル
Bach×Piazzolla

2018年9月6日 浜離宮朝日ホール
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 松村謙 /写真提供:東音企画

<曲目>
バッハ:フランス組曲第2番、第3番
〜〜〜
ピアソラ(山本京子編曲):ミケランジェロ‘70、孤独の歳月、天使の死、
     天使のミロンガ、アディオス・ノニーノ、リベルタンゴ

アンコール
 ショパン:ノクターン遺作、ワルツ第9番、英雄ポロネーズほか

 

バッハとピアソラ。そのプログラムに惹かれた。
聴いて痺れた。
異能、と呼ばれるが確かに。

フランス組曲2つ。
冒頭、ほう、溜めるなあ、アルマンドを、から開始されるが、前半全てを聴き通すと、その入り方の周到に気づく。バッハの、かつ自分の音楽の最初の扉をどう開けるか、まずは呼び水。だからこの「溜め」はほぼここだけで、以降、姿を現さない。くどくどやってうんざりさせるような愚は犯さないのだ。マジシャンの前口上みたいに、まず自分の語り口で気をひく。ほう、のあとは次々開かれる不思議の国の音の扉に幻惑されてゆくばかり。
不思議の国と言ったが文字通り、アルマンドからジーグまで、それはもういろんな仕掛けに満ち満ちていて(大抵、この種の才気は鼻につくのだが)、わあ、わあと目を見張るとりどりの景色なのだ。奇を衒うでなく至って自然、次はどんな、とワクワクさせるワンダーランド。
音色の豊饒、ニュアンスの多彩、アゴーギグ、ダイナミクスの大胆・自在・適切な按配(この塩梅?が絶妙でその知力がはっきり見える)で、聴き慣れたバッハがまるきり違う風景になる。
クーラントの律動、サラバンドの装飾句の優美(全てニュアンが違う)、エールのスタカートも硬軟とりまぜ弾み具合さまざま。メヌエット、左手のステップの巧み(重心の配分)に心誘われ、ジーグは決然たる表情で引き締める。
続く第3番はさすがに手数が減ろうかと思ったらとんでもない。やっぱり次なる不思議の国へと連れて行かれたのであった。
創意と即興性。「楽譜はまっさら。自由に、けれど節度を持って」が彼の演奏家として背骨(作曲家、楽譜、演奏家の三角バランス)と見るが、その至難をよくぞと思う。

ピアソラはまず『ミケランジェロ‘70』、最低音から最高音まで激流グリッサンドで度肝を抜く。バンドネオンのふいごのような熱風がぐわっと随所に吹きあがる。バッハのメヌエットにあったあの柔らかなステップが、今やタンゴの鋭いラインで空間を切り裂くのだ。タンゴの型は直線的で角かどに強いアクセント、ステップは相手の身体の芯までずいっと踏み込む(と習った)、その相互の抉りあいはエロスとタナトスそのものなのだが、それがむうっと立ちのぼるではないか。
『孤独の歳月』でのやるせなさ、ピアノの譜面台をパラパラ叩き、気分は宵闇迫るバルの一角、胸焦げる。
どの曲も、リズム打鍵はピシンピシン、光る黒曜石に亀裂が走るよう。たまらず身体が浮く、刻む。そくそくたる旋律はたっぷり湿り聴き手を濡らす。
『アディオス・ノニーノ』で最高潮、いや、最後の『リベルタンゴ』の締め、今度は最高音から最低音までを激走グリッサンド、勢いそのまま椅子から飛び出しクルリ一回転。
大向こうからひゅうひゅう!もむべなるかな。

バッハとピアソラ、両者に通底するのは音楽の骨格の揺るぎなさで、赤松の左手は完璧にそれを組み立てる。そこに多様な創意がまぶされ新たな音世界が現出、独特の魅力を放つのだ。
指導者としての活動も幅広く、客席はピアノの先生らしき女性群、子供たちもいる。
多分、彼ら、このステージに「私も、僕も、こんな音世界に飛び込み泳ぎ回りたい!」と間違いなく思ったろう。
アンコールの3曲目、ショパンの『英雄ポロネーズ』のアナウンスにきゃあと上がる嬌声。

語弊を恐れず言おう。
この「ピアニスト」を真に生かすには、今は別の「場」が必要ではないか、と。
教育と演奏の両輪でどこまで行けるか。
底辺を広げることと頂点(世間的位置のことでない)を極めること。
思い描く理想もあろうが、どんなにか難しかろう。

編曲に一言。
ピアソラは熱情に不穏が潜む。聞き映えは大事だが、そういうところをもう少し拾ってくれたなら。

関連評:赤松林太郎 ピアノコンサート 2017 夏|大田美佐子

(2018/10/15)