Menu

清水華澄リサイタル 2018|藤堂清

清水華澄リサイタル 2018

2018年6月26日 紀尾井ホール
Reviewed by 藤堂 清(Kiyoshi Tohdoh)

<演奏>
清水華澄(メゾソプラノ)
越知晴子(ピアノ)
鈴木広志(サクソフォン)*

<曲目>
アルマ・マーラー:5つの歌曲
  静かな町
  父の庭
  なま温かい夏の夜
  おまえのもとでは打ち解けられる
  ぼくは花のもとをさまよう
グスタフ・マーラー:さすらう若人の歌
———————————————
I.ストラヴィンスキー:《エディプス王》よりヨカスタの歌
  〈恥と思わぬか、王子たち〉
H.ベルリオーズ:《ファウストの劫罰》よりマルグリートのアリア
  〈燃える恋の思いに〉
根本卓也:カンタータ《臨死船》RINSHISEN(谷川俊太郎)*
——————(アンコール)——————-
武満徹:うたうだけ(谷川俊太郎)
マスカーニ:歌劇《カヴァレリア・ルスティカーナ》より〈ママも知ってのとおり〉

 

2017年11月日生劇場の《ルサルカ》でのイェジババ、2018年2月東京二期会の《ローエングリン》でのオルトルートなどで、音楽的にも演技面でも存在感を示した清水華澄、近年のそういった充実の中で行われたソロ・リサイタル、これが「私の初めてのリサイタル」とのこと。少し長くなるが彼女の言葉を引いておきたい。

「一心不乱に前だけを見て走り続けた20代、30代。しかし30代の最後に突然「なぜ自分は歌っているのか」を考え始め、今までやって来なかったことの中に答えがあるのかもしれないと思い、リサイタルへ挑戦することを決めました。」(公演プログラムより)

プログラムは、第一部が歌曲、第二部がオペラ、第三部が日本語の作品という三部構成。

最初のブロックの歌曲は、マーラー夫妻の作品、アルマ・マーラーの《5つの歌曲》とグスタフ・マーラーの《さすらう若人の歌》。グスタフ・マーラーは、「これから歌っていきたい」、「演奏する度に、私の声が喜ぶ」作曲家とのこと。
《さすらう若人の歌》の異なる曲調の4曲、どの歌も歌詞がはっきりと聞きとれる。〈今朝ぼくは野原を歩んだ〉の細かい動き、〈ぼくは燃える剣をもっている〉の強い声と高い音、音楽がどんな動きをしても確実に言葉を届けてくれる。
アルマ・マーラーの《5つの歌曲》は1910年に出版されているが、彼女がアレクサンダー・ツェムリンスキーの教えを受けていた時期の作品と考えられている。もしグスタフがアルマの作曲を禁止しなければ、今残っている17曲を越える作品が生みだされていたかもしれない。歌詞にピッタリよりそうようなメロディーを持つこれらの歌曲を清水は豊かな声で彩った。

二番目のブロックは、彼女が影響を受け、いずれは歌いたいと思っていた2曲。
最初は、ストラヴィンスキーの《エディプス王》からヨカスタの歌。学生時代にジェシー・ノーマンの映像をみて、あこがれてきたという。彼女自身、この役を歌える時期が来つつあるというように、強い声も使い、歌い上げた。全曲への挑戦が遠からず実現することを期待したい。
続くベルリオーズの《ファウストの劫罰》のマルグリートのアリア〈燃える恋の思いに〉は多様な表情が要求される。少し力みが感じられるところがあったのは残念。歌った本人も「まだまだ道半ば」と書いているので、いずれは克服されると期待したい。

日本語の作品として、根本卓也が谷川俊太郎の詩を用いて作曲したカンタータ《臨死船》が取り上げられた。この作品は、テノール、サクソフォン、チェンバロという編成で初演されたものだが、この日のリサイタルのために、作曲者がメゾソプラノ、サクソフォン、ピアノのために書き直したという。詩の大部分は朗読で進められ、音楽の大きな割合はサクソフォンの技巧的な演奏が占める。三途の川を渡る船の乗客となった主人公の一人語り、いつしか船の甲板から吸い出され、瀕死の状況、痛みの中に戻される。清水の語りもときおり入る歌唱も、サクソフォンとピアノと対抗したり協調したり、まったくあきることがなかった。
詩の最後の部分、

  ここからどこへ行けるのか行けないのか
  音楽を頼りに歩いていくしかない

が、彼女の今後への決意でもあったのだろう。

40代に向かっての活動の方向を示すことは十分にできた初リサイタルと評価する。
オペラの分野での活躍、これからも期待しているが、マーラーなど歌曲も積極的に取り組んでいただきたい。
そして、二回目のリサイタル、どのような挑戦をするのかおおいに楽しみ。

(2018/7/15)