異才たちのピアニズム5 イノン・バルナタン|大河内文恵

異才たちのピアニズム5 イノン・バルナタン

2018年6月26日 トッパンホール
Reviewed by 大河内文恵(Fumie Okouchi)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
イノン・バルナタン(ピアノ)

<曲目>
ドビュッシー:ベルガマスク組曲
トーマス・アデス:ダークネス・ヴィジブル(1992)
ラヴェル:夜のガスパール

~休憩~

ムソルグスキー:組曲《展覧会の絵》

~アンコール~
メンデルスゾーン:ロンド・カプリチョーソ ホ長調 op. 14
ラヴェル:ソナチネより 第2楽章

 

常々疑問に思っていることが1つある。ピアノという楽器は基本的に独奏楽器であるがゆえに、ピアニズムを究めてしまったピアニストの中には指揮者や作曲家に転向したり、室内楽に活動の重点を移したりと、音楽との関わりを深めながらもソリストとしての活動からは距離を置くことがよくみられる。ではそれでもなお、ピアニストであり続けようとするならば何が必要なのか、どんなモチベーションがあれば続けられるのか、それが知りたくて、この「異才たちのピアニズム―ピアノ音楽の本質を伝える才知との邂逅―」の第5回に足を運んだ。

本日のプログラムの前半は2012年にリリースされた「ダークネス・ヴィジブル」というアルバムに収録されている曲で構成されている。ただし曲順は、「夜のガスパール」と「ベルガマスク組曲」が入れ替えられていた。ベルガスク組曲の「前奏曲」が始まった途端、これはシェンカーだ!と閃いた。シェンカーというのはオーストリアの音楽理論家で独特の楽曲分析法を説いた。音楽の中から重要な音を取り出して段階的に骨組みに還元していくシェンカー理論は、音楽の大きな流れを見通すには非常に有用だが、演奏に応用するのは難しい。音楽は骨組みだけでできているわけではないし、骨組みの流れと曲全体の流れを調和させることは至難の業だからである。

本当にバルナタンがシェンカー理論に基づいて演奏したのか否かは不明だが、意図していないとしても、明らかに曲の骨格と細部とを慎重にバランスを取りながら弾いているのはたしかだ。

つづく「メヌエット」は非常にvisibleな演奏、第3曲「月の光」は弱音の美しさが際立っていた。第4曲「パスピエ」は音のうつろいが魅力的。ここまでですっかりバルナタンの虜になったが、彼の本領はまだまだこの先にあった。

アデスの《ダークネス・ヴィジブル》はダウランドのリュート歌曲を換骨奪胎してつくられた曲だが、楽譜をみると驚く。3段譜で書かれており、1つ1つの音にpppppからfffまでの多彩な指定がなされており、これを1人で弾くのか?と気が遠くなる。それを生で実演するなんて正気の沙汰とは思えない。

CD音源で事前に(バルナタン演奏で)聴いてはいたが、音源では気づかなかったことが生で聴くとわかってくる。曲中で多用されているトレモロが悉く完璧かつ美しい。すべての音がコントロールされていて、乱れが一切ない。しかも、そのトレモロとともに奏される他の旋律や音がこれ以上ないほどマッチしている。正直、音源で聴いたときには、これを生で聴くことに好奇心はあったものの、是非聴いてみたいという気持ちにはならなかったが、この曲こそ生で聴くべきだと実感した。

《夜のガスパール》は技巧的かつ魅力的な曲なので、リサイタルなどで弾くピアニストは多い。これをバルナタンがいったいどう弾くのか。意地悪な見方をすれば、これだけ手垢のついた曲をなぜアデスの次に弾くのか理解できなかった。

「オンディーヌ」が始まってみて、あぁこれはアデスの延長上にある曲なのかと気づいた。もちろん、作曲された年代はアデスのほうが後なのだが、そう思わずにはいられなかった。長く延ばす音をどのくらいの音量で延ばし、そこにどうやって他の音を調和させるのかという視点からみると、《夜のガスパール》がまるでアデスの曲の応用バージョンに聴こえてくる。アデスを媒介させることによって、今まで誰も気づかなかった面を明るみに出す。そうか、この曲順はそのためだったのか。

第2曲「絞首台」ではドローンが響き渡り、「スカルボ」」では「トレモロ職人」とでも呼びたくなるような完璧かつ芸術的なトレモロを堪能した。

ムソルグスキーの《展覧会の絵》はラヴェルのオーケストラ編曲版でも知られ、というより、演奏される頻度はピアノ版よりそちらのほうが圧倒的に多い。バルナタンの《展覧会の絵》はムソルグスキーの原曲をそのまま弾いているのではなく、ラヴェルのオーケストラ版をピアノ用にリダクションしているかのように聴こえた。目の前で弾いているのはたしかにピアノなのだが、耳の中ではオーケストラが鳴っている。不思議な体験であった。

後半の盛り上がってくるところでは、大音量でダイナミックに弾かれるのだが、それがまったく不快でない。これだけの大音量でも音量も音色も音のバランスもアンダー・コントロールなのだ(若干、音を外したところはご愛敬)。

それどころか、なぜかムソルグスキーのオペラを聴いているような気さえしてきた。私はいったいどこにいるんだろう。それと同時に、この曲が友人の死をきっかけに書かれたことが強烈に思い起こされた。絵画的な描写力が強調されがちであるが、その本質は鎮魂歌(レクイエム)なのだと思い当たったとき、胸がいっぱいになった。

アンコールではまず《ロンド・カプリチョーソ》。聴きながら、バルナタンの弾くシューベルトが聴いてみたいなと思った。どうやら別の会場ではシューベルトを弾いたとのこと。惜しいことをした!2曲目はラヴェルのソナチネ2楽章。もうこの2曲の選曲だけで、彼がどれだけピアノを愛しているかが伝わってくる。まちがいなく、ピアノへの愛が彼のモチベーションになっていることを確信した。好きだからピアノを弾く、それでよくない?それが彼の答えなのだ。

(2018/7/15)