東京フィルハーモニー交響楽団 第907回サントリー定期シリーズ|平岡拓也

東京フィルハーモニー交響楽団
第907回サントリー定期シリーズ

2018年5月8日 サントリーホール 大ホール
Reviewed by 平岡拓也(Takuya Hiraoka)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
お話:篠井英介
フロレスタン:ペーター・ザイフェルト(テノール)
レオノーレ:マヌエラ・ウール(ソプラノ)
ドン・フェルナンド:小森輝彦(バリトン)
ドン・ピツァロ:ルカ・ピサローニ(バリトン)
ロッコ:フランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ(バス)
マルツェリーネ:シルヴィア・シュヴァルツ(ソプラノ)
ヤキーノ:大槻孝志(テノール)
合唱:東京オペラシンガーズ(合唱指揮:田中祐子)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:近藤薫
指揮:チョン・ミョンフン

<曲目>
ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」(演奏会形式)

 

新緑の眩しい5月、2つの『フィデリオ』が東京を席巻した。ひとつは新国立劇場の新制作によるもの(こちらも拙稿を参照されたい)、もうひとつが本稿の東フィル定期である。音楽史上もっとも有名な作曲家の一人であるベートーヴェンの唯一のオペラである『フィデリオ』だが、不思議と上演機会は多くない。その魅力を体験するにはまたとない機会がやってきたわけだ。

今回の東フィルの上演では、通常開幕前に演奏される『フィデリオ』序曲ではなく『レオノーレ』序曲第3番が冒頭に演奏された。これは指揮者チョン・ミョンフンの考えを反映した結果である。軽めの『フィデリオ』序曲よりも、物語の諸要素が凝縮された『レオノーレ』序曲第3番が演奏会形式においては相応しいと彼は考えるようだ。なるほど、第2幕のフロレスタンのアリアや大臣到着を告げる舞台裏のトランペット、何より暗→明の展開が聴く者の意識をオペラ本編に向ける。荘重に開始し、終結部では一気に歓喜を爆発させる演奏も素晴らしい。王道でありながら、コントラバスの鋭い裏打ちを適度に強調してリズムを浮き立たせるなど、細かな技も光っていた。

第1幕が始まると、音楽は一転軽やかな歌芝居(ジングシュピール)路線に戻る。かと思えばマルツェリーネのアリアは悲劇的なC-moll(恋の歌であるのに!)でロマン性に富み、また重唱に戻ってモーツァルトを連想させるなど、ベートーヴェン自身が様式の面で悩み、揺れ動いていることが手にとるように分かるのだ。チョンはそうした作曲家の迷いをも包み込むような見事な棒の力で、東フィルから雄弁な音楽を引き出す。演奏会形式のオペラ上演で何よりも重要な音楽面の充実は本当に嬉しい。歌手への気配りも万全で、流麗な運びと随所で見せる切れ味の鋭さが両立しているのだ。やはり東フィルとの『蝶々夫人』でも感じたが、チョン・ミョンフンが世界屈指のオペラ指揮者であることに何の疑いも無い。

悲劇的な弦の弱音と鋭い木管の叫びに始まる第2幕は、序奏に続いて現れるフロレスタンの第一声にかかっている。囚われの身の彼が「神よ!(Gott!)」と歌い始める切実なアリアは、大ヴェテランのペーター・ザイフェルトによって歌われた。年始に64歳を迎えた彼だが、かそけく始め、やがてホールを揺るがす最強音に達するその美声は驚くべき艶を誇っている。昨年のザルツブルク復活祭音楽祭『ワルキューレ』のジークムントで健在ぶりを示した彼だが、未だに現役最高水準のヘルデンとしての実力を保っているとは!多少の音程の乱れ、チョンが示すフレーズからのはみ出しはあるものの、それらを些事と思わせてしまうほどの声自体の魅力である。彼の登場により音楽は俄然生気を増し、ピツァロの乱入もものともせずに大臣到着、合唱も交えた歓喜の大団円へと加速していく。チョンの棒は些か強引さすら感じさせるほどにテンポを上げるが、破綻無くそれに追従するオペラシンガーズと東フィルにも圧倒された。

オペラの手練れが演奏会形式上演に集結するとこれほどの水準に達する、という好例が東フィルの『フィデリオ』ではなかったかと思う。来月スカラ座でも同作品を振るチョンは勿論のこと、歌い手もみな暗譜で最小限の演技も交えて物語を体現した。ザイフェルトについては先述のとおりだが、彼を救うレオノーレ/フィデリオのマヌエラ・ウールも適度なヴォリューム感のある美声により、気品と色香を併せ持つ人物像を魅せてくれた。フロレスタンを亡き者にしようとするピツァロを歌うルカ・ピサローニはやや声量は物足りなかったが、鋭い語りに好感を持った。ロッコのフランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ、マルツェリーネのシルヴィア・シュヴァルツは、脇役としては贅沢すぎるほどの布陣。邦人の歌い手では、シュヴァルツに純情を捧げるヤキーノ(ジャキーノ)の大槻孝志が気を吐いた。場面を一転させる重要な役割を担う大臣ドン・フェルナンドは声の威厳に甚だ乏しく、唯一残念な点であった。囚人の合唱、終幕で活躍する東京オペラシンガーズは威勢よく、サントリーホールだとビリつくほどの声量。後日聴いたオペラシティ公演ではバランスよく鳴っていた。

最後に一点付け加えたい。演奏会形式上演における流れの悪さを危惧したのか、ドラマ中のドイツ語による語りは相当にカットされていたが、これは第1幕における展開の唐突さを招いてはいなかったか。プログラムノートで物語の進行について丁寧に触れていたとはいえ、最初にこの作品を観る聴衆にとっては些か不親切に思える。開演前に置かれた篠井英介による「お話」がそれを補完するためかは不明だが、その内容は観念的なものに留まっていた。とはいえ、解説中の氏に対するある観客の暴言(早く演奏しろよ!というもの)は到底赦されるものではなかった。

(2018/6/15)