コンポージアム2018 ウンスク・チンの音楽|齋藤俊夫

コンポージアム2018 ウンスク・チンの音楽

2018年5月24日 東京オペラシティコンサートホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
指揮:イラン・ヴォルコフ
クラリネット:ジェローム・コント(*)
チェロ:イサン・エンダース(**)
読売日本交響楽団

<曲目>
(全てウンスク・チン作曲)
『マネキン――オーケストラのためのタヴロー・ヴィヴァン(活人画)』(2014-15、日本初演)
『クラリネット協奏曲』(2014、日本初演)(*)
『チェロ協奏曲』(2006-08,rev.2013、日本初演)(**)

 

チェレスタとグロッケンが可愛らしくも不気味な旋律を奏で、次第に不気味さが増していく『マネキン』の第1楽章冒頭を聴いた時はそれからの音楽に期待した。しかし、その後の断片的な音型が多方から押し寄せてくる展開の音楽的意味は筆者にはつかめなかった。オーケストラがよく鳴っている(その解像度の高さは作曲者のみならず、ヴォルコフの指揮と読売日本交響楽団の手腕ゆえであろう)のは確かなのだが、それが本作品が基づいているホフマンの怪奇小説『砂男』の「謎」という魅力を音楽化できていたとは思えない。筆者にとってこの断片の集積体的音楽はそれぞれの断片がつながりつつ離れているような「謎」の音楽ではなく、ただそれらがバラバラに出現している「意味不明」の音楽に聴こえてしまったのだ。
第2楽章、第3楽章、第4楽章もまた然り。第2楽章の錬金術の失敗、第3楽章の自動人形少女の踊りと死、第4楽章の主人公の塔からの落下、など、描写的な音楽要素は同定できたものの、それが作品の音楽性を豊かにしていたか、と言われると、疑問であると正直に答えざるを得ない。オーケストラが鳴り響きつつ動いてはいるのだが、形式・構造が成立しているようには思えなかった。

『クラリネット協奏曲』も、ソリストが重音奏法を伴いつつ浮遊するように始まり、次第に燕のように高速で旋回しつつ飛び回る第1楽章冒頭部分は『マネキン』の冒頭と同じく期待させられたのだが、オーケストラが断片的音型を散りばめ始めると、その音の数の過剰さに、またしても作曲者の音楽的意図が見えなくなってしまう。
クラリネットは良いのだ。ソリストの技量が高い、というだけでなく、作曲者の書いているソロ・パートは非常に面白く聴こえたのだ。第2楽章、第3楽章もソロは実に魅力的だった。だが、オーケストラがソリストと協奏しようとすると、音が潰し合っているようなことはないのに、何故か色彩感が失われる。

そして演奏会最後の『チェロ協奏曲』に至って、やっと筆者はチンの音楽的な「顔」、「個性」が見えたと思えた。ソリストが終止前面に立ち、オーケストラが後景に退いたこの作品の構図は、先の2作より、より「クラシカル」だと言えるが、その音楽的意図ははっきりと伝わった。
ソリストのGis音が中心音としての強い音楽的自我で支配する緊張感に満ちた第1楽章、ソリストを先頭に全楽器が突撃する第2楽章、弦楽のハーモニクスをまといつつソリストが悲しくも美しいコラールを奏でる第3楽章、オーケストラがトゥッティでソリストに挑むも、ソリストは激しく自分の世界を作り続け、最後は最高音に消えゆく第4楽章、いずれも、チェロが孤独な、そして孤高の存在として強靭な音楽を作り上げていた。このチェロにこそ作曲者の「顔」が刻印されていると筆者には思えた。

演奏会前日の講演会でチンは「トラディショナルでもアヴァンギャルドでもない、その間にある音楽言語を模索している」と言っていたが、今回の3曲を聴くに、アヴァンギャルド寄りだったのは『マネキン』『クラリネット協奏曲』のオーケストラであり、トラディショナルだったのは『チェロ協奏曲』の独奏チェロであったと考えられる。
筆者としては、表層的なアヴァンギャルド「風味」で作品を飾り立てるのではなく、その音楽がトラディショナル、保守的であると言われても、自分の真の音楽性を見据えて彫琢した音楽を書くことをチンには期待したい。

(2018/6/15)