トーマス・ピアシー TOKYO TO NEW YORK|齋藤俊夫

トーマス・ピアシー TOKYO TO NEW YORK 東京とニューヨーク

2018年4月12日 東京オペラシティ近江楽堂
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:Thomas Piercy

<演奏>
クラリネット、ひちりき(*):トーマス・ピアシー
マンドリン5重奏(**):TTNYマンドリンクインテット(間宮匠、野田まどか、野田一人、安藤雅人、鈴木健太)

<曲目>
薮田翔一:『ソナタ』(2016、世界初演)
壺井一歩:『プリズム・ソナチネ』(2016)
平山智:『People Coming and Going』(2018、世界初演、ピアシーに献呈)
藤倉大:『Rubi(co)n/100 Notes』(2006)
伊藤美由紀:『Décalage』(2016)
橘川琢:『秋月譜』(2016、世界初演、ピアシーに献呈)(**)
ジェニファー・ヒグドン:『90 Notes for Ned』(2013、日本初演、ピアシーに献呈)(**)
ネッド・ロレム:『White』(2003、ピアシーに献呈)(**)、『Paris Then』(1981)(**)
伊左治直:『舞える笛吹き娘』より第3楽章(2010)(*)
合屋正虎:『Spring Thaw(雪解け)』(2015、世界初演、ピアシーに献呈)(*)(**)
湯浅譲二:『ソリテュード』(1980)
森田泰之進:『ReincarnatiOn Ring IXd』(2016、世界初演)

 

トーマス・ピアシーは現代音楽、それも作曲家への委嘱初演を活発に繰り広げている世界的なクラリネット奏者。日米の現代作曲家を取り上げての今回の演奏会、果たしてどのような出会いが待っているのかと楽しみに向かった。

まずは薮田作品。最高音域から最低音域まで一気に下行し、少しずつボールが跳ねるように上行していく冒頭から、妖精が見え隠れしながら踊っているような、アンブシュアを1音ごとに変えつつ吹く(特殊奏法がごく自然に使われていた)部分など、自由自在な音の運動を聴くのがすこぶる楽しい。だが作曲・演奏ともに技術的には非常に難易度の高い作品と見た。それを楽しく聴かせてしまうのが両者の実力の高さを示していよう。

壺井作品は中~高音域の軟らかい音色で優美な旋律を聴かせる第1楽章、低音域に始まる軽快な第2楽章、弱音主体でアルペジオと長い音価の対比を聴かせる第3楽章、トリルで強音から弱音に急速に消えゆく音型を繰り返し、やがて朗々とクラリネットを吹き鳴らしたかと思うと、最後は切り落とすように終わる第4楽章からなる。音楽的には前衛や実験の系譜には入らない保守派と言えるが、しかし作家の個性が光る良曲であった。

平山作品は3連符の反復に始まり、息の音にゆっくりと消えていく楽想に移り、また3連符で速度と音量と音高を上げてその頂点で終わる第1楽章、クラリネットならではの軟らかな弱音が霧のように会場を包み込み、最後は高音での鳥の鳴き声のような音で終わる第2楽章、クールなジャズダンスのような第3楽章。これもまた保守的な音楽だが、作曲家の独創性が光った。

強音の高音から弱音の低音へ下行して、低音域の濁った音のロングトーンが吹かれる、だけの20秒程度で終わってしまった藤倉作品は批評の書きようがないというのが正直なところである。

息を楽器に吹き込む特殊奏法、トリル、息、トリル、等々とかすれた音に始まる伊藤作品は前衛の系譜に連なる作品だったと言えよう。急に強音がいなないたり、また息の音に沈みこんだり、重音奏法で不気味さを醸し出したりと、動でもあり静でもある錯視的音楽。しかし瞬間ごとには強い印象を与えるものの、10分以上の作品全体を総合する「何か」が足りないように思えた。

クラリネット独奏で演歌のようなヨナ抜き音階の旋律を朗々と吹き鳴らし、マンドリンも加わって宮城道雄の新日本音楽の合奏曲のような日本伝統音階による音楽に、そして最後はまたクラリネットの演歌のような旋律で終わる橘川作品にはいささか疑問を抱いてしまった。尺八と箏の合奏曲をそのままクラリネットとマンドリン5重奏に移しただけではないか、と。楽器が違えば音楽もまた違うものにならねばならないのではなかろうか。

ヒグドンの3分ほどの小品は、あたかも空を飛ぶ夢のように、マンドリンのトレモロの中をゆったりとクラリネットが漂う。90個の音だけで書かれたというが、実に内容豊かな作品であった。

ロレムの2曲はサティを田舎風にしたという風情のワルツ。これも批評の言葉につまる、聴くべき所がわからない作品であり、さらに不可解だったのは『ホワイト』でマンドリンの和音がクラリネットの旋律とズレていたように聴こえたのは演奏ミスか、作曲者の意図によるものだったのかということである。

伊左治のひちりき独奏作品は快作・怪作であった。ひちりきを高速で吹きまくるそれは、あたかも東南アジアかインドあたりの民族舞曲のような音楽。ひちりきなのに日本的云々とはかけ離れ、かつ音楽として完結しているのはさすがは鬼才・伊左治と言えよう。

合屋作品は日本伝統音階をベースとした西洋の劇伴音楽、日本的な楽想を西洋の文法に則って作曲した音楽といった感触を受けた。確かに美しく、楽曲の構成もしっかりしているが、個性に乏しいのは否めないと思えた。

湯浅作品でピアシーの技量の全てが発揮されたと言えよう。重音奏法、倍音奏法、といった特殊奏法が通常の奏法と等しく扱われるこの作品にはクラリネットの全技術が含まれている。時間空間が歪み、実像と虚像が重ね合わされる得も言われぬ不可思議な響きが会場に響き渡り、一音たりとも無駄のないその音楽的創造力の豊かさに、これぞ湯浅譲二の音楽と感じ入った。

最後の森田作品は客席に9つのiPodを分散配置し、クラリネット独奏にそのiPodからのパルス音が合わされるというアイディアの作品だったが、それが生かされていたとは言えまい。クラリネットの音でiPodの音がほとんどかき消されてしまい、合奏になっていなかったのである。また、もしiPodとクラリネットの音量バランスが取れていたとしても、終始荒ぶるクラリネットと、淡々とパルスを刻むiPodがアンサンブルできたとは思えない。ピアシーの熱演が空振りとなって残念であった。

様々な方向性を持った作品群を聴き、なるほど、現代音楽にもこのように色々な顔が、と発見と納得ができたのだが、聴衆が3、40人程度しかいなかったのは実に残念だった。もっと好奇心を持って新しい音楽を探索する人が増えんことを祈りたい。

(2018/5/15)