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オリ・ムストネン  ピアノ・リサイタル|藤原聡

オリ・ムストネン  ピアノ・リサイタル

2018年2月10日  すみだトリフォニーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<曲目>
シューマン:『子供の情景』op.15
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第8番 変ロ長調『戦争ソナタ』op.84
ベートーヴェン:ヴラニツキーのバレエ『森のおとめ』のロシア舞曲の主題による12の変奏曲 イ長調 WoO.71
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番  へ短調『熱情』op.57
(アンコール)
バッハ:インヴェンション第14番 変ロ長調 BWV.785

 

若き日より「鬼才」と喧伝され、その独特の個性が強い印象を与えていたムストネンも今年(2018年)で51歳を迎える。筆者はこのピアニストの実演を未聴だが、録音でも最近の演奏に接していなかったのでどのような変貌を遂げているのか(あるいはいないのか)が非常に気になる。妙に円熟していたりされると困るのだ。とは言ってもさらに過激になられていても聴くのが怖いし。

黒い上下に手には楽譜を持ってゆったりとステージに登場したムストネン、結論から書けばその鬼才ぶりは健在(健在過ぎ?)といったところだろうか。シューマンでは1曲目の『見知らぬ国々と人々』冒頭からして異彩を放つ。リズムを揺らしつつ遅目のテンポによって旋律をスタッカート気味に演奏するのだが、思わぬ音の強調や突如浮き上がる伴奏音型、左右のバランスを大きく変更することにより違って聴こえる和声、曲調からはみ出るようなダイナミズムを見せる打鍵…。われわれがこの曲から通例聴いたことのないような表情をまとった『子供の情景』が現出する。作曲者はこの曲を指して「子供の心を描いた大人のための作品」と言っているが、その描かれた「子供の心」が随分とエキセントリックというか極端なものに思えてくるかのような演奏で、人によってはギョッとするのではないか。

2曲目はプロコフィエフ。この作曲家の楽曲はそれがどんな曲であれある種の軽やかさとスマートさ、一歩引いたシニカルさが聴き取れるが、このムストネンの演奏は極めて重量感に溢れた重々しいもので、その意味ではアイロニカルな表情が消し飛んでいる。確かにその硬質かつ刺激的な音響はモダニズムの一側面を示してはいるだろうが、プロコフィエフの音楽はこんなにクソ真面目で面白みのないものだったろうか。凄演には違いないのだが…。軽やかさのないプロコフィエフ演奏はやたらと長く聴こえる。

休憩を挟んでベートーヴェン2曲、まずは実演にかかるのが珍しい『ヴラニツキー変奏曲』(題名が長いので仮にこう呼んでおく)。意外にも(?)当夜1番の聴き物はこれであった。この日の演奏の中ではもっともバランスの取れた表現を聴かせてくれたのだが、それでいて当時としてもかなり挑戦的であったろうユニークなそれぞれの変奏の妙をメリハリをもって巧みに浮き彫りにしてくれていた。冒頭に「妙に円熟していたりされると困る」と記したが、とは言え破格の挑発ぶりが独りよがりになっても意味がない。シューマンとプロコフィエフには、独りよがりとまでは言わないものの「違ったことを敢えてやる」というような意識を感じさせたのだが、「ヴラニツキー変奏曲」はその臭みがなく、それでいて十分にユニークなものとなっていたのが良い。

しかし、『熱情』になるとまた元に戻る。その演奏はとにかく流れずポキポキと分断される。左手のバスが非常に強靭で、しばしば右手とのバランスを破って暴力的なまでの打鍵を聴かせる。不思議なアクセントやノンレガートなどもあり、それらの意図が良く分からないのだ(こちらの理解力と感性が貧弱なのは自覚した上で素直に書いている)。ここでは『ヴラニツキー変奏曲』の箇所で書いたような「敢えて違うことをしている」ように聴こえる、それ自体が目的であるかのように。ムストネンは作曲家でもあるという。それからするなら、演奏者としてのムストネンが他人の作品を演奏する際には、1つ1つの音符をまるで外科医が解剖手術においてそれぞれの臓器や部位を抽出して吟味するかのような即物的な視点で接しているという面があるのだろうか、などとも感じる。全ての曲で楽譜を置いて演奏していたのもその辺りと関係があるとも思えるが、しかし出て来た演奏は余りにユニークであり、少なくとも筆者にはその意図が図りかねたのであった(会場の拍手も一部のファンは別として通り一遍の儀礼的なものであり、恐らく「何だか凄いものを聴いたとは思うがよく分からない」といった辺りだろう)。

昔、蓮實重彦はゴダールを指して「いささかも個性的ではないし、個性的であろうとしたこともない」と書いた。私(わたくし)性は表現の中に雲散霧消しーーゴダール作品はすべからく「剽窃」なのだーー、ゴダールは個性的たれ、と思ってあの作品を生み出してもいない、という。結果出て来ているのがあれらの作品ならば、それを作品の享受者は「真の個性」と呼ぶだろう。ムストネンの演奏は、果たしてどうなのか。そんなことを考えた、まだ結論は出ていないけれど。

(2018/3/15)