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アレクサンドル・クニャーゼフ J.S.バッハ「無伴奏チェロ組曲」全曲演奏会|齋藤俊夫

アレクサンドル・クニャーゼフ J.S.バッハ「無伴奏チェロ組曲」全曲演奏会

2018年2月6日 サントリーホールブルーローズ
Reviewed by 齋藤俊夫 (Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
チェロ:アレクサンドル・クニャーゼフ

<曲目>
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲
  第1番 ト長調
  第2番 ニ短調
  第3番 ハ長調
  第4番 変ホ長調
  第5番 ハ短調
  第6番 ニ長調
(アンコール)
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第3番より『ブーレ』
同:無伴奏チェロ組曲第1番より『プレリュード』

 

休憩2回(合わせて30分)を入れて実に3時間35分に及んだ今回のリサイタルを聴き終えて、筆者はどうしても「音楽における精神性」という厄介極まりないものに思いを寄せずにはいられなかった。そんな古ぼけた発想は自分とは無関係のものだと思いこんでいたのに、クニャーゼフのバッハを聴き通して、その「精神性」に打たれてしまったのである。

あえて即物的に記述すると、クニャーゼフのバッハは端的に言って「ものすごく長い」。例えば手元にあるピエール・フルニエのバッハ同作品は全曲で約138分なのに対して、先述の通りクニャーゼフは約185分である。第1組曲から第6組曲まで、第4曲サラバンド全てと、第5組曲と第6組曲の第2曲アルマンドが超スローテンポであった。
反対に第1組曲から第6組曲までの第3曲クーラントは全て高速であり、終止形に至っても息継ぎせずにすぐさま次のフレーズに続く、まるで1曲が全1フレーズで作曲されているかのような演奏であった。

こう書くとただクセの強いバッハ演奏を延々と聴かされただけのように思えるかもしれないが、事実は逆である。3時間以上、筆者は一音たりとも聴き逃すまいと一心に耳を傾けていた。

クニャーゼフの音色は非常に重く、太く、そしてなにより、超スローテンポの時のその音は「深い」のである。自己陶酔に陥ることなく、自分と戦うような、凄絶な、熱い、しかし激情に抗うかのような理性、もしくは正気を保って弾かれる、そのサラバンドとアルマンドはもはや舞曲ではなく、宗教曲のような厳粛な、大伽藍的スケールの、「精神的に深みのある」音楽であった。
快速・高速の演奏では重く・太い音色と軽い音色とを使い分け、大胆な強弱法を用いて音楽に色彩を与えていた。だが、長いフレージングで一気に駆け抜けるその演奏にエンターテナー的な所は微塵もなく、やはり「深い」。聴いているこちらも短距離走をしているかのように息ができなくなったが、それも苦しくはなかった。

クニャーゼフの演奏に、筆者は完全に気圧され、飲み込まれ、その音楽の精神性の深さに感動したのである。

しかし、音楽における精神性とは何か?演奏者の人生が難病や大事故などの苦難に満ちていたことに由来するものではないだろう。それを演奏者の人間性に還元するのも誤りであろう。音楽における精神性とは、あくまで作品と演奏者の音楽性にのみ由来する。これは同語反復的論理であるが、音楽は音楽でしかなく、そして、音楽が音楽であることが、それが精神的であることと同義なのである。
だが、あえて付け加えるならば、ただ「正しい」だけの音楽は精神的に「深い」音楽足り得ず、「正しさ」から逸脱した所に「深さ」が現れることもある。クニャーゼフの驚くべき独創的な解釈はもはや「正しいバッハ」ではなかったのかもしれないが、「深いバッハ」であったことは否定することはできない。

求道的とも言うべきリサイタルであったが、その精神性はまた音楽でしか味わえない歓喜をももたらしてくれた。クニャーゼフに心からの尊敬と感謝を捧げたい。

(2018/3/15)