小人閑居為不善日記 | ECDと『リバーズ・エッジ』が註釈する歴史|noirse

ECDと『リバーズ・エッジ』が註釈する歴史

text by noirse

1月24日、立て続けに2人のミュージシャンが世を去った。ひとりはイギリスのバンド、ザ・フォールのマーク・E・スミス。もうひとりは日本のラッパー、ECD。1992年にデビューしたECDは、90年代半ばまで、日本の初期のヒップホップ・シーンを牽引する存在だった。

当時の日本語ラップはまだ手探りで、韻の踏みかたも確立されていなかった。しかし90年代後半以降は技法が整理されていき、ラッパーたちのスキルはみるみるうちに上がっていった。
そんな中でECDは、けして技巧的に優れたラッパーではなかった。だがいたずらに技巧を求めず、自らのスタイルを変えようとはしなかった。

ヒップホップは通常、聞いていて心地いいトラック、フロア向きのグルーヴに乗せて、技巧を極めたラップを乗せていくものだ。流行の移り変わりも激しく、日本のヒップホップもまた、概ねアメリカのモードを追随したかたちで作られている。

だがECDは、流行に追随することに満足できなかった。和モノからノイズ、ジャズ、ダブまで、何でもアリのサウンド。率先して社会や政治に対してメッセージを発し、サウンドデモにもいち早く参加。独自の道を歩むECDは、尊敬されつつも、常に異端だった。

ECDは、ことあるごとにパンク・ロックやニューウェイヴからの影響を口にしている。1970年代後半、音楽業界を覆っていた商業的な傾向をパンクがリセットしたあと、ニューウェイヴ勢が登場。それまでロックでは軽視されていたダブやノイズ、電子音楽や各地の民族音楽などを取り込んでいった。

ザ・フォールは、ニューウェイヴを代表するバンドのひとつだった。バンドの首領、マーク・E・スミスは、ジャンクでごった煮なサウンドに乗せて、国家や社会を挑発し、シニカルなジョークと文学的な表現を散りばめ、前衛をひた走っていった。

わたしにとってECDは、ヒップホップの理念を一身に集めるレジェンドというよりも、マーク・E・スミスのポジションに近い。ザ・フォールの熱心なファンだったBBCのDJ、ジョン・ピールは、彼らを「いつも違っていて、いつまでも変わらない」と評したが、ECDもそうあり続けようとしていたはずだ(マーク・E・スミスは1957年生まれで、ECDは3歳年下に当たる)。
ECDは、かつて「ヒップホップでなければなんでもいい」と発言している。初期ニューウェイヴを代表するバンド、ワイアーのコリン・ニューマンのコメント(「ロックでなければなんでもいい」)に基づくものだが、これほどECDの音楽を的確に説明した言葉はないだろう。

ECDにとって、日本でヒップホップに取り組むということは、アメリカの流行をそのまま輸入するのではなく、ロックからパンク、ニューウェイヴへと連なる連続体として捉えることだったのだろう。
そもそもECDのみならず、日本のヒップホップは、いとうせいこうや近田春夫、高木完や藤原ヒロシのような、パンクやニューウェイヴに触発された世代によって「発見」された音楽だった。ニューヨークの低所得層の黒人コミュニティのパーティで自然発生的に誕生した現地のヒップホップとは、まるで状況が違うのだ。

アメリカのトレンドを追いかけることが悪いわけではない。だがそれによって形成された歴史だけが自明なわけでもない。ECDは長いあいだメインストリームから外れていたが、彼のラップは常に「日本のヒップホップ」自体のカウンターとして機能していた。ECDの音楽は、日本のヒップホップという「偽史」を揺さぶる註釈だったのだ。

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ECDが1995年にリリースした〈Do the Boogie Back〉という曲がある。これは前年にヒットしたスチャダラパーと小沢健二の〈今夜はブギー・バック〉へのアンサーソングだった。
小沢の最新シングル〈アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)〉を主題歌とした映画が、岡崎京子の同名マンガ(1994)を原作とした《リバーズ・エッジ》だ。

岡崎京子は、1980年代から90年代のマンガシーンをリードする存在だった。資本主義や性愛、生や死といった主題を、軽やかかつ鮮やかに紡ぐ彼女のマンガは、特に当時の若い女性に強く支持された。《リバーズ・エッジ》は彼女の代表作で、20年越しでの映像化となった。

だが映画化が報じられたときから、当時のファンから不安視する声が上がっていた。こういった反発は、多かれ少なかれ発生するものだ。しかし原作と映像は別ものであって、その時に映像化される必然性があり、実際にそれを果たしていれば、本来問題はない。逆に映像化作品に必然性が欠けていた場合、それは批判されて然るべきはずだ。

映画版《リバーズ・エッジ》はどうだったか。内容は概ね原作通りに進行していく。舞台も90年代のままだ。スタンダードサイズのフレーム、にじみを強調したルックは、まるでブラウン管時代のTVの深夜のドラマを見ているようで、ノスタルジーを喚起するものだった。当然、何故いま《リバーズ・エッジ》なのか、その答えは見出しにくかった。

そんな中、唯一際立つ改変点が、登場人物へのインタビュー・パートだ。物語を遮るように、主要人物に監督の行定勲がインタビュアーとして質問を投げかけ、彼らがそれに答えていくシーンが挿入されている。回答はある程度事前に決められているものの、細部は個々の役者に任されていて、それぞれ役に成り切って、即興的に演じていったそうだ。行定勲によれば、完成度の高い原作を改変することに抵抗があり、であればいっそ若い役者たちに作品を委ねることで、《リバーズ・エッジ》を映画化することの意味を見出すことができるのではないか、そういう意図の演出だったようだ。

中でも特に原作から逸脱していたのが、主演を務めた二階堂ふみのパートだ。映画の終盤に二階堂は、生を肯定する前向きなメッセージを発していく。当初、これには大きな違和感を抱いた。

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《リバーズ・エッジ》の舞台は、郊外の高校だ。登場人物は、ふたつのグループに分けることができる。ひとつは「観音崎」や「ルミ」といったグループで、彼らは資本主義のルールに則り欲望を追い求め、生を謳歌しながら、しかし行き場のない破滅的な思いを抱えている。もう一方は「山田一郎」や「吉川こずえ」で、彼らは生の実感を得ることができない人物として描かれる。ふたりは川沿いの藪の中に白骨死体を見つけるが、警察には通報せず、「宝物」として秘匿し、折に触れて死体を眺めることで、「戦場のような日常」を生き抜いていく。彼らは、それぞれ逆の立場から、生と死の境界を移ろっているわけだ。

二階堂演じる主人公「若草ハルナ」は、このふたつのグループを繋ぐ、狂言回しのような役割を担っている。欲望に踊らされることもないが、死についても拒否反応を起こす。ニュートラルなポジションを崩さない、一見普通の女子高生である。
読者はハルナをカメラ・アイとして、生と死の縁(エッジ)を歩む彼らの日常を観察していく。特に、死に魅了される山田一郎や吉川こずえは、常識的な価値観からすれば、特異な人物として映るだろう。そしてどちらのグループにも共感できない場合、読者はハルナに感情移入していくことになる。

だが最終的に作品は、常識的に見えたハルナこそ、最も異様な人物であるという結論に至る。吉川こずえは、ハルナを「あの人は何にも関係ない」と評する。ハルナは、死に魅入られることもないが、生にもさして興味がない。《リバーズ・エッジ》の登場人物たちの日常は、極端に描かれているだけであって、誰しも少しは生に執着していたり、死に魅入られていたりするものだ。どちらにも関心のないまま生きていくことのできるハルナこそ、普通ではないのだ。

ハルナは生の実感を得ることのないまま、これからも生き続けていくだろう。そのときハルナに共感していた読者は、自分こそ生にも死にも関心のない、宙吊りな存在だったと思い至ることになる(こうした解釈は、ことさら特別なものではなく、たとえば椹木野衣《平坦な戦場でぼくらが生き延びること:岡崎京子論》でもそう位置付けられている)。

しかし映画版での二階堂の生を肯定するメッセージは、こうした原作の意味を否応なく変えてしまう。これは一部の原作のファンの不興を買ってもいるようだ。だがわたしは、ここにこそ映画版《リバーズ・エッジ》の価値があるように思えた。

二階堂(たち)は、《リバーズ・エッジ》を誤読したのではないだろう。通常の読みを経た上で、肯定的な解釈を施したと見るべきなのだ。
たしかに当時のファンからすれば、このような解釈は受け入れにくいかもしれないが、昔と今では当然状況は異なるし、受け取る印象も違うはずだ。《リバーズ・エッジ》が、映像化の必然性がある映画だったか、当時の読者だったわたしには分からなかい。しかし二階堂らと同世代の観客が見れば違うのかもしれない。そして二階堂(たち)の解釈を肯定できる若い観客がいるならば、必然のある映像化だったと見るべきなのだ。

わたしにとってECDのラップは、現在の日本のヒップホップに疑義を唱える「註釈」だった。それとは別の意味で、《リバーズ・エッジ》の二階堂の言葉も、《リバーズ・エッジ》という作品の、現在から見た「註釈」のように感じられた。

歴史とは普遍的なものではなく、常に上書きされていくものだ。上書きされたことに気付かないまま受け入れてしまうこともあれば、その行為に過敏に反応し、否定して、かえって時代から取り残されてしまうこともある。ECDの作品を聞き直し、《リバーズ・エッジ》を見ることは、自分の「歴史」解釈は取り残されていないか、問うていくことに思えた。そしてそれは、これらの作品に限らず、常に自覚しているべき問いのはずだ。

(2018/3/15)

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noirse
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