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ボストン交響楽団 演奏会|藤原聡

ボストン交響楽団 演奏会

2017年11月7日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
アンドリス・ネルソンス指揮/ボストン交響楽団
ギル・シャハム(ヴァイオリン)

<曲目>
チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35
(ソリストのアンコール)
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番 BWV1006~ガヴォット
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番 ト短調 作品103『1905年』
(オーケストラのアンコール)
ショスタコーヴィチ:オペレッタ『モスクワのチェリョムーシカ』~「ギャロップ」
バーンスタイン:管弦楽のためのディヴェルティメント~第2楽章「ワルツ」

 

ボストン交響楽団(BSO)、新音楽監督アンドリス・ネルソンスに率いられて3年ぶりの来日。前回2014年の指揮者は元々マゼールであったが、体調を崩したことにより代役がデュトワとなる(周知の通りマゼールはBSO来日のわずか2ヶ月後に帰らぬ人となってしまう…)。つまりこのオケ自体の来日は前回とさほど間が空いてはいないのだが、音楽監督との来日、という事で言えば何と1999年の小澤征爾以来18年ぶりだという。前任者レヴァインとの来日は叶わなかったので(体調の問題?)結果的にそうなってしまったということ。ネルソンスとBSO、幾つか発売されている録音を聴く限りなかなかの相性と思われるが、当然ながらその辺りを実感するためには実演を聴くに如くはない。彼らの東京公演は11月7日から9日まで3日連続開催されたが、メイン曲目はどれもヘヴィなものばかりである(7日→ラフマニノフ:交響曲第2番、9日→マーラー:『巨人』)。今回聴いたのは初日7日のショスタコーヴィチ・プログラム。尚、この日は皇太子ご夫妻がご来場、RB席で聴かれていた。

まず1曲目はギル・シャハムをソロに迎えてのチャイコフスキーだが、この演奏には驚かされた。過去に聴いたどの演奏にも似ていない。それはシャハムのみならずネルソンスの指揮するオケも同様だ。冒頭、明るくて肌理が細かく、そして柔らかいヴァイオリンの音色でオケの序奏が始まった瞬間にその音の瑞々しさに瞬時に惹き付けられる。いわゆるロシア的な情緒の表出とは全く無縁の演奏であるが――音色の明るさのみならずフレーズの構築にタメと粘りがなく非常に流れが良い――、それが全く物足りなくないのはそこに常に繊細なニュアンスの変化が伴っているからだろう。シャハムのソロもまたユニーク極まりなく、軽めの音ながらコシのある強靭な響きであり、大きく太く歌わせるのではなくて音を置きに行くような独特のモダンで洒落た感覚。繰り返すが、このような演奏はチャイコフスキーのこの曲で聴いた記憶がない。オーソドックスな演奏を好む向きからは軽すぎる、もしくはサラッとしていて物足りないという意見が出ることも容易に想像できるが、音楽的な質は実に高く、誰もそこまで否定は出来まい。
また、ここで特筆したいのがソロとオケの抜群の息の合い方で、例えばロンド・ソナタ形式による第3楽章、ソロ・ヴァイオリンによって登場する第2主題がややあった後に木管がテンポを落として短調による新たなメロディを奏する箇所。ここからしばらくの間の木管群~オケの弦楽器群~ソロの完璧なテンポ感とニュアンスの一致を聴けば、標準的な演奏におけるソロとオケの協奏のレヴェルを大きく上回っていることが実感される。シャハムとネルソンスはよほど音楽的相性が良いのだろう。BSOの抜群の音楽性は言うまでもない。正直に申せば、デュトワと来日した際のこのオケにここまでの繊細さは全くなかった(そこはリハの回数やコンディションなど複合的な要素が絡む話であるからそれぞれ1回のコンサートを比較して一般化は出来ないが)。
アンコールのバッハのパルティータは時折装飾音を加えての推進力に富む面白い(敢えてこの形容詞を使う)演奏で、バロック的な意味での「語る演奏」とは対極にありながらも決してノッペリしない。徹頭徹尾シャハム的という感じもするが、そのシャハム流が非凡なのだから文句もない。

そして後半はショスタコーヴィチ。この曲を外来オケが過去来日公演に持って来た記憶がないが、ともあれBSOで聴けるのだから大歓迎。解釈自体は極めてオーソドックスながら(終楽章冒頭の例の金管による革命歌は異様に遅いテンポで演奏されたが)、これもまた実にハイレヴェルな演奏である。ここでもオケの音は明るくしなやかであり、それは色彩的とすら形容できる(ミュンシュ以来のフランス的色彩感が未だ生きている、と言ってもあながち間違いではあるまい)。この曲により壮大さ、重々しさと暗さを求めるなら少し違うということになるだろうし(名演ではあるが「凄絶」とは言えない)、いかにもソヴィエト連邦「以降」の世代の演奏という気はするが、但しここでもBSOの質の高さとネルソンスのオケの掌握ぶりが尋常ではないレヴェルにある。
例を挙げれば、第1楽章での弱音主体で進行する音楽の内的緊張感の持続、第2楽章での弦楽5部が織り成すテクスチュアの美しさと常に保たれる絶妙のバランスなどはなかなか聴けない類のものだ。そして、オケがどれだけ咆哮しても音に柔らかさがあって全くうるさくないのも驚異的。2014年のBSOはここまでのまとまりと洗練を見せてはいなかったので、これはネルソンスとBSOのコンビネーションが上手く行っていることの証左であろう。完璧な音響体の提示、という意味で唯一無二の高みにある演奏(筆者は「それより先のもの」も期待したい、と付記してはおくが。ないものねだり?)。

アンコールの2曲ではシリアスな交響曲第11番とは対極、ショスタコーヴィチの躁的な乱痴気騒ぎを目の当たりにする『モスクワのチェリョムーシカ』からのギャロップ(基本的に真面目な人が羽目を外すとえらいことになるという感じです)では多様な音色の乱舞と炸裂するリズムにたじたじとなり、BSOのシルキーな弦楽器の魅力を堪能したのがバーンスタイン。言うまでもなくこの人ゆかりのオケであるBSOだから、という選択であろう。来年は生誕100年でもある。

最後に。数年前にバーミンガム市響と来日した際のネルソンスは、その表現意欲がややもすると空回り気味となる瞬間があった。それに比べて、今回のこの指揮者は遥かに落ち着いて地に足の着いた音楽をやるようになっていた。これは完全にいい意味で言う「円熟」へと向かっている。その表現力にうまく形が伴うようになって来ているのが今のネルソンスだ。今後も実演を追って行こう。