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松平頼暁 ギターのための音楽展|齋藤俊夫

松平頼暁 ギターのための音楽展

2017年7月6日 ティアラこうとう小ホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 平井洋(Yo Hirai)

<曲目・演奏>
(全て松平頼暁作曲)
3台のギターのための『スペクトラ』(1979)
 ギター:佐藤紀雄、山田岳、土橋庸人
ギターのための『波動』(1986)
 ギター:土橋庸人
ギターのための『グレーティング』(1998)
 ギター:佐藤紀雄
ソプラノとエレクトリック・ギターのための『時の声』(2013)
 ソプラノ:太田真紀、エレクトリック・ギター:山田岳
歌、パフォーマンス、ギターのための『Trio for One Player』(2014)
 ソプラノ、パフォーマンス、ギター:工藤あかね
エレクトリック・ギターのための『オスティナーティ』(2016)
 エレクトリック・ギター:山田岳

 

齢86にしてその実験精神に曇る所なき日本現代音楽の大家・松平頼暁。今回は彼にとって初めてのギター作品のみによる個展、それも山田岳、太田真紀、工藤あかねといった若手演奏家も参加してのコンサートである。どんな驚きと出会えたのかここに記したい。

まず3台のギターのための『スペクトラ』、3台のギターがそれぞれ3分の1音ずつ調弦が違っているという時点でもう期待するしかない。冒頭で3人によるトリルの和音(?)が奏されるのだが、それがえも言われぬ歪んだ響きである。さらに旋律的音型が奏されるとこれもまた実に歪んでおり、特に2人以上が重奏するとそこに全く未知の音響世界が広がる。
そして曲が進むにつれ、始めは歪んだ音だと認識していた微分音の合奏の、その音自体の面白さ、そして美しさがわかってくるのである。40年近く昔の作品であるが、実に新しい音響感覚を味わえた。

『波動』、いわゆる「普通の音楽」といえるような楽想が現れるのだが、そこに遠く離れた音高の単音や和音、アルペッジョ、それにギターのボディやネックを叩く奏法、などが入れ替わり立ち替わり挿入され、「普通の音楽」はいつの間にかどこかへ行ってしまう、ようでやはりどこかには存在し続ける。
「普通の音楽」を奏しつつ、それを同時に異化させる、ということなのだろうが、しかし、たくさんの音が高速で飛び回り、音楽的相貌が1つや2つに定められないが、しかしそれでも1つの作品足り得ている音楽を聴くのは理屈抜きでスリリングな体験であった。

『グレーティング』、A-B-C-B’-A’の5セクションにより構成され、Aでは点描、Bではボトルネック奏法によるグリッサンド、Cでは分散和音(とプログラムノートには書いてあるが、筆者には和音にはならない音列のように聴こえた)が用いられた作品。例えば管楽器のように線的に音がつながることのない、ギターの点的な音が奏でる点描やグリッサンドは禁欲的だが、とても豊かな静寂に満ちていた。刺激的な今回の演奏会で最も心安らげる一時であった。

『時の声』、松井茂の詩のオノマトペをエレクトリック・ギターによって音響化し、それをソプラノがオノマトペで模倣して歌う(つまりエレクトリック・ギターとソプラノは一種のカノンを成す)というアクロバティックな作曲手順を踏んだ作品。エレクトリック・ギターがピックで弦を叩けば、ソプラノは「カツッ、カツッ」と歌い、ロングトーンの後に弦を弾けば、「ティーーーチキッ」と歌う。さらにエレクトリック・ギターを高速でかき鳴らせば、ソプラノは喉を「ガラガラガラ」と震わせて鳴らす。
文にして書くとある種単純な技法と音楽かと思われるかもしれないが、さにあらず。エレクトリック・ギターはこの楽器ならではのポルタメントとグリサンドによる奏法をかなで、また、スポンジで弦をこする、弦の下に棒をはさんで棒をはじくなどの特殊奏法も使い、そしてそれらすべてをソプラノがオノマトペにして歌うのである。もはや字に表すこともできない謎の声が発せられた。最後はエレクトリック・ギターが轟音を鳴らす中、ソプラノがパニックに陥ったかのように何を言っているのかわからない早口の絶叫を歌って(?)終わる。壮絶な作品であった。

さらに工藤あかねが歌、パフォーマンス、ギターを1人3役やるという『Trio for One Player』、客席後方からなにかご神体でも掲げるようにギターを持って工藤が登場。ギターを舞台向って右手に置いてバレエのように回って左手に置かれたケープを片足でつかむ。乱数を唱えながらギターをとりあげ、かまえるが、胴を叩いたりこすったりして普通に弾かない。そしてオノマトペを歌う。
冒頭を記述しただけでこの有様である。その後も工藤がバレエのように踊る、工藤本人が書いた音楽時評の朗読、ギターを銃のようにかまえて客席前方を歩く、床に置いたギターにまるで死人のようにケープをかぶせ、しかしすぐ取り払う、などなど、とにかくカオスなパフォーマンス(もちろん工藤は歌いもするしギターも弾き、そしてパフォーマンスと歌唱・演奏は同時に演じられることも多々ある)が最後まで続く。だが、ただのカオスではない。論理的に構成された知的カオスである。それゆえに、最後まで飽きずに面白さと新しさが持続するのである。大変な問題作であるが、しかし松平の本領を見せてもらった。

最後の近作、『オスティナーティ』、前半はエレクトリック・ギターの特徴的な奏法とも言えるポルタメント、グリッサンドによるロングトーンを使わず、鍵盤楽器のようにエレクトリック・ギターの音を使うことによって、点描的な音楽の輪郭を際立たせる。中盤に入ってポルタメント、グリッサンドによるロングトーンがループ・サンプラーによって重ねられることで海中や宇宙空間を漂うような不可思議な音響世界が広がる。そしてラジオ放送をスピーカーにつなげて流す、ピッチ・シフター(足踏みペダルで音高を上下させる装置)で激しく上下動する音を加えるなどして、最後はエレクトロニカのような明るい、だが無調らしき音列が奏でられて終わる。『グレーティング』と同じく無駄の無い禁欲的な音楽だが、より運動的・活動的で、そして冒険的な音楽であり、一種、爽やかな感覚を与えてくれる音楽でもあった。

松平頼暁、若手音楽家をも刺激し触発し続けるその音楽的沃野にまだまだ限りはなく、次に期待し続けるべき作曲家であると改めて知った演奏会であった。