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特別寄稿|プラハへの旅|能登原由美

プラハへの旅

text & photos by 能登原由美( Yumi Notohara)

夕方7時を迎えるというのに日射しはまだ上から降り注いでいる。ヴルタヴァ川(モルダウ川)に小さな橋が幾つもかかっているのが飛行機の窓からもよく見えた。目をそらせば菜の花畑の鮮やかな黄色や木々の緑。あとひと月で夏至を迎えるヨーロッパは、山も川も街も人々も、全てが明るく光を放ち、こちらの目を争って引きつけようとするかのようだ。

4年ぶりのプラハ訪問。前回訪れたときは秋にさしかかる頃で、低い雲と霧雨で街全体が暗く沈んで見えた。淋しい印象が残る街だった。明るい日射しの下で見るとこれほど印象は異なるのだろうか。今、目の前に広がるプラハの街は、14世紀に神聖ローマ帝国の首都となり、ルネサンス期にかけて音楽や文化の都として栄えた華やかな往時を偲ぶことができる。その後首都がウィーンに移されるとプラハは一地方都市の座に成り下がるが、18世紀に入ってもなお《フィガロの結婚》を熱狂的に受け入れ、《ドン・ジョヴァンニ》を生み出した音楽の都でもあった。あるいは19世紀にヨーロッパでナショナリズムの渦が巻き起こると、プラハに押し寄せたその波はスメタナやドヴォルジャークといった作曲家をしてチェコの音楽文化を世界へと轟かせていく…。

けれども今度の旅の目的は、こうしたプラハの華やかな音楽の道を辿ることではない。むしろ、陰の道といってもいいかもしれない。それは第二次大戦後のこと。ソビエト連邦の圧倒的な後押しを受けた共産党政権下で、日増しに強まる全体主義的なイデオロギーがこの街の音楽をどのように包み込んでいったのか。あるいは、やがて激化する米ソ二つの超大国の争いが、小国の音楽や文化をどのように巻き込んでいったのか。その跡を辿ることである。すでに70年近くも「昔」のことのようだが、表現の自由が認められてからまだ30年も経っていない国。その跡を辿るにはまだ「近」すぎて、4年前の訪問時にはすんなりとは辿らせてもらえない状態であった。

とはいえ、手探り状態は今回も同じ。しかも、仕事の合間を縫って来たため、移動日を除けば正味3日間の短い滞在。その間に、当時の資料を調査・収集して回ることが旅の目的だ。と言いたいところだが、この時期を選んだのには訳がある。つまり、「プラハの春音楽祭」に参加すること。もちろん聴衆として。むしろこちらが本当の目的かもしれない。ただ、1946年にチェコ・フィルハーモニーの創立50周年記念に合わせて始まったこの音楽祭自体、冷戦下にはイデオロギーの暴力にさらされた歴史をもつ。現在の音楽祭にその頃を思わせるようなものはないと思うが、チェコで最も古くて大きな音楽祭、しかも、チェコの人々にとっては自民族の音楽と文化を誇る象徴的な行事ともいえる。実際、音楽祭はスメタナの命日となる5月12日に《わが祖国》の上演で幕を開けることが慣例となっている。この音楽祭にはぜひとも参加しなくては。

旅の1日目。音楽祭を晩に控え、夕方まで資料調査。今日は国立文書館だ。ここは最近になって郊外に拡張移転したらしく、中心街から地下鉄とバスを乗り継いで行く。プラハの移動手段は主にトラムとバス、地下鉄であるが、チケットが共通で改札機も共通。便数も多く乗り換えも便利だ。その点、日本よりも効率的かもしれない。思ったよりも楽に辿り着いた。一方の文書館は、確かに広大な土地に新しい大きな建物がそびえ立つが、中は薄暗く閑散としている。館内唯一の小さなカフェは14時閉店という表示にもかかわらずその15分前には店を閉めたので、お昼を食べ損なってしまった。やはり日本のようにはいかないものだ。

夜はいよいよ音楽祭。音楽祭は6月初頭までの3週間、期間中は毎日市内各地でコンサートが開催される。今夜はブルノ・フィルハーモニー管弦楽団による公演だ。ブルノはチェコ第二の都市でモラヴィア地方の中心都市。ヤナーチェクゆかりの地でもあり、プラハ同様に古くから音楽が盛んな街だという。アメリカの指揮者、デニス・ラッセル・デイヴィスにより、シュニトケの《ファウスト・カンタータ “Seid nüchtern und wachet…” 》、ホルストの組曲《惑星》が演奏される。会場はフォーラム・カーリンという新しい施設。

ところが、この演奏会は私の中にあった音楽祭のイメージをダウンさせてしまうものだった。あるいは、「伝統的な」音楽祭という私の先入観が良くなかったのかもしれない。まずはその施設と舞台設備。簡易椅子を並べただけの観客席は、前半50分、後半1時間の演奏を聴くと腰痛持ちの私にとっては耐え難いものとなる。そして舞台。当初から背面に青い照明が入っていたが、演奏が始まると同時にシュニトケの音楽に合わせて色や模様を変えていく。音楽にシンクロしていたといえばそうだが、視覚的に誘導されているようで落ち着かない。そして何よりも演奏。デイヴィスはそつなく楽団をまとめるが、音楽が平板で主張らしきものが伝わってこない。独唱者にマイクが入っていたことにも違和感を感じた。唯一、《惑星》の最後に登場した女声合唱の透き通った歌声だけが心を和ませてくれた。総じて、光と音のスペクタクルに身を晒したという印象。その微かな感覚と、翌日まで続くことになる腰痛をぶら下げてホテルへ戻った。

2日目。国立図書館での資料調査。ここは昨日の文書館とは対照的に、旧市街はカレル橋のすぐ近く、16世紀にイエズス会士によって建てられたクレメンティヌムと呼ばれる厳かな建物の一角にある。4年前も建物の一部が改装中だったが、今は音楽部門のある区画が改装中らしい。別室に案内された。司書の女性たちが皆にこやかで親切だったのが嬉しい。ここで予約していた資料をひとしきり記録に取った後、午後は音楽祭のアーカイブ調査へ。ヴルタヴァ川対岸の地区にある事務所を訪れた。アーカイブ担当の女性はやはりとても気さくで親切な人。しかも、コーヒーは?お茶は?お水は?と、何かと気を遣ってくれる。チェコの人はにこやかで親切な人が多い。

その後、中心部にある共産主義博物館を覗いてみた。現在のチェコの人々がほんの30年前まであった時代をどのように語っているのか、確かめたかったのである。そんなことに興味をもつ人は少ないだろう。と思いながら行ってみると、驚いたことに館内は人で溢れていた。しかも若者が多い。皆熱心に解説を読んだり展示物をみたりしている。内容は、チェコの共産主義時代の記憶を負の遺産として捉えたものだが、その変遷と背景を示しながら人々の生活や文化の様子などを紹介するものだ。また、1948年の「二月革命」に始まり、民主化への扉がソ連によって閉ざされた68年の「プラハの春」、そして89年に共産主義政権が倒される「ビロード革命」まで、苦難の歩みをまとめたビデオの前にも多くの人が腰を下ろす。決して大きくはない館内には所狭しと展示物が並べられ、確かに見応えはあった。けれども、展示物の内容よりも何故、これほど多くの若者が熱心にみるのか、むしろそちらが気になった。ベクトルが異なるとはいえ、国家主義的、全体主義的な風潮が再び世界各地に現れ始めている。そうした懸念や不安が人々に足を運ばせるのだろうか。もちろん日本も例外ではないのだけれど。

3日目。旅の最終日の今日は、チェコ・ラジオ放送で古い資料を見せてもらうことになっている。アーカイブの担当者に局の玄関まで迎えに来てもらうが、1923年の創立以降、増築された建物は私にとっては迷路のようだった。帰りも送ってもらえるのだろうか…。いや、そんなことより、ここは「二月革命」や「プラハの春」などの政変が起きるたびに政権側に占拠され、自由を求める人々の声が封じ込められてきた場所でもある。あるいは、冷戦が激化するなか政府によって推奨されたプロパガンダの音楽が流された場所でもあったのだ。そう考えると途端に、壁の中に染み込んだ無数の声が聞こえるような気がしてきた。探していた情報は結局見つからなかったが、資料をめくりつつ様々な思いにかられる場となった。

旅の最後は音楽祭で締めくくる。市民会館のスメタナ・ホールで開かれるプラハ交響楽団の公演。ポーランドの若い指揮者、ウカシュ・ボロヴィチにより、アレクサンダー・タンスマンの《4つのポーランド舞曲》、ハイドンの《トランペット協奏曲》、HK グルーバーの《3 MOB Pieces》、プロコフィエフの《交響曲第7番》が演奏された。

まず驚いたのは会場の雰囲気。2日前のフォーラム・カーリンの時とは全く対照的ではないか。つまり、先の会場ではあまり見かけなかったフォーマル・スタイルの観客が、老若男女を問わず圧倒的に多い。それもそのはず、会場自体が2日前とは全く異なる。フォーラム・カーリンは巨大な多目的スタジオのようで、装飾性のないシンプルな建物だった。一方、この市民会館はかつて王宮としても使われていたらしく、外観ばかりか内部も豪華絢爛、その装飾はまさに美術作品だ。確かにこの建物であればドレスがよく似合う。私が持っていた音楽祭のイメージとはこれだったのかもしれない。

演奏も聞き応えあった。ハイドンの協奏曲でソロを務めたハー・モルガンは、昨年のプラハの春国際音楽コンクールの覇者。クリスタルのごとく透明でハリのある音を自在に操る。息のコントロールに長けた人なのだろう。ただ、速いパッセージが続くと幾分走りがちに。それをうまく制御したのがボロヴィチの指揮。ボロヴィチは古典から現代までの4つの作品それぞれのスタイルをうまく掴んで表現するが、とりわけプロコフィエフのシンフォニーの第2楽章で見せた叙情性が強く印象に残った。

さて、短い旅も終わり。予定していた行事は全て遂行したが、旅の最終目的となるチェコの音楽の陰の道を掘り起こす作業はこれからだ。帰国したらまずは収集した資料の整理をしなくては。そういう意味では、これが長い旅の始まり、と言えるだろうか。