小人閑居為不善日記|あなたの人生のサウンドトラック|noirse

あなたの人生のサウンドトラック

text by noirse

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先月はチャック・ベリー、先々月は鈴木清順。今月も訃報が届いた。当コーナー、もう訃報欄にしてもらったほうがよさそうである。

5月17日、クリス・コーネルが世を去った。まだ52歳と若かったが、自殺だったようだ。

チャック・ベリーや清順と比べれば知名度は落ちよう。クリス・コーネルは、サウンドガーデンというバンドのボーカルとして、ロック・スターの仲間入りを果たした人物だ。
わたしは彼の音楽に、世代的な親近感がある。クリスの活動を小まめに追いかけるほどのファンではなかった。だが彼の最盛期の楽曲には、一聴するだけで当時の風景が立ち上がってくる程度の思い入れはある。

音楽を日常的に聞いている人、かつて聞いていた人なら、誰しもそういった楽曲やアルバムがあるだろう。ひと昔前だったらテープやMDに、いまだったらi-PodやiPhoneに曲を取り込み、折に触れて聞いている人も少なくないはずだ。
ベン・E・キングを聞けば《スタンド・バイ・ミー》の、ライチャス・ブラザーズを聞けば《ゴースト/ニューヨークの幻》のシーンが浮かんでくるように、あなただけの名曲プレイリストを聞けば、あなたの人生の一場面や、当時の感情、思い出が、否応なく甦ってくるに違いない。

それはいわば、「人生のサウンドトラック」とも呼べるものだ。
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現在、映画《ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス》が公開中である。昨今人気のアメリカン・コミック原作のヒーロー映画、いわゆるアメコミ映画だ。だがこの作品は、他のアメコミ映画とは少々勝手が違う。
主人公たち「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」は、宇宙を股に駆けるならず者、かつ正義の味方だ。オープニング・クレジットと共に、早速宇宙怪獣との対決が繰り広げられる。しかし前景を占めるのは、人気キャラのベビー・グルートが音楽に合わせて踊る姿。「ガーディアンズ」たちのバトルは後景に追いやられ、はしばししか伺うことができない。

この演出には意図がある。監督のジェームズ・ガンは、前作《ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー》で、1970~80年代のヒット曲を、映画全体に散りばめた。主人公ピーターは地球出身で、母親が編集したミックス・テープを大事に携えており、そこからの曲が劇中で使用されているという設定なのだ。続編でもその設定を踏襲しており、エレクトリック・ライト・オーケストラのポップな名曲〈Mr. Blue Sky〉に合わせて樹の赤ん坊が踊る姿は、音楽通から女性客、子供まで、広くアピールするだろう。
だが、熱いアメコミ・ファンへの配慮も怠りない。オープニング・シーンは後景にもある程度ピントが合っており、どういう戦闘が行われているか、多少は伺えるようになっている。逆にあえて「見せない」ことによって期待を煽る、よくできた演出と言えよう。

日本では、けしてアメコミ読者は多くない。アメリカでも、観客全員がコミックを読んでいるわけではあるまい。このオープニングは、アメコミにそこまで興味のない観客にも、音楽やキャラというフックを与えることで、映画を最後まで楽しめることを保証している。このような工夫が、コミック読者以外の層からも支持される理由の一助になっているのは間違いない。
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このオープニングはよくできている。だが同時に、よくも悪くも、この映画の立場を明確に表してもいる。

ジェームズ・ガンのこのアプローチは、ガンが影響を受けたと広言する、クエンティン・タランティーノの作品に基づくものだ。
タランティーノは、1994年に発表した《パルプ・フィクション》で、手垢のついたギャング映画を一度解体し、再編成し直すことで、新たな息吹を吹き込むことに成功した。作品のあちこちに様々な小ネタやレトロな小道具、ガジェットを仕込むことで、語りの混乱による新鮮さ、コラージュめいた構築美を与えたのだ。
それは音楽の動向と同期している。当時、ベックなどの「宅録系」や、日本では「渋谷系」など、豊富な音楽知識をDJのように再構成したサウンドが、各地で注目を集めていた。歴史的背景は一旦リセットし、古いものも新しいものも「素材」や「ネタ」として同格に扱い、再配置して作品化する。
《ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー》はそのアメコミ映画版だ。つまりガンの中では、アメコミヒーローも懐かしい音楽もかわいいキャラも、すべて同格の「素材」なのだ。
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かつて映画音楽とは、クラシックや現代音楽に由来するオーケストレーションがベタっと貼り付けられているものだった。その概念をひっくり返したのが、(正確には先行例がいくつかあるものの)アメリカン・ニューシネマだ。
ニューシネマでの最初の例は1967年、《卒業》でサイモン&ガーファンクルの曲がフューチャーされたことだった。ダスティン・ホフマン演じる主人公ベンジャミンの心情を、彼らの瑞々しいアコースティック・サウンドが代弁した。その後《イージー・ライダー》が公開、主人公の内面や物語に沿ったポップスやロックの楽曲をサウンドトラック化するこの手法は、一挙に広まっていった。

だが早くも数年後、この手法には、違う意図が込められるようになった。1973年に公開された《アメリカン・グラフィティ》では、監督のジョージ・ルーカスの青春時代、1962年をノスタルジックに描き、ヒットを記録した。劇中では当時のオールディーズがふんだんに使われ、サントラの評価も高い。
当時はベトナム戦争の最中で、ニューシネマやロックに代表されるカウンター・カルチャーや学生運動も沈静化しつつあった。《アメリカン・グラフィティ》には、「かつてのアメリカよもう一度」という思いが込められている。ニューシネマで開発された新たなサントラの方法論は、たった数年で反動的なものへと反転してしまったのだ(そこにルーカスの才能が光っているとも言えるが)。

タランティーノやガンの方法論は、その延長線上と言えるだろう。もちろん、たとえオールディーズを使用しても、編集やセンスによっては別の価値を帯びたり、新しい発見を促すこともある。一概に、すべてが懐古的で後ろ向きだとも決めつけられまい。だが《ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー》のアプローチは、あくまで「監督ジェームズ・ガンのサウンドトラック」の水準に留まっている。
《卒業》のサントラは「主人公ベンジャミンのサウンドトラック」と呼べるだろう。しかし《ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー》で、「主人公ピーターのサウンドトラック」が流れているとは、わたしには思えないのだ。
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《パルプ・フィクション》は、サントラも評判で、よく売れていた。同じくサントラと共に、90年代半ばに大きく話題になった映画に、《トレインスポッティング》(以下《T1》と略す)がある。
不況真っただ中のエジンバラを舞台に、ヘロイン中毒の若者たちを描いたこの作品は、1996年に公開されるやいなや大きな支持を受け、いまでは90年代のユース・カルチャーを代表する作品と位置付けられている。そして20年後の今年、同じ監督、同じキャストによる続編、《T2 トレインスポッティング》が公開された。

《T1》のラストは、ユアン・マクレガー扮する主人公マークが、クスリと犯罪にまみれた底辺の生活に終止符を打つため、仲間の金を持ち逃げし、スコットランドを脱出するシーンで幕を閉じた。仲間を裏切ったとはいえ、希望が込められたラストだ。
だが《T2》は、打って変わって陰鬱だ。大金を使い果たし、尾羽打ち枯らしたマークが、恥を忍んで、20年振りにエジンバラに帰ってくる。マークはかつての仲間と共に一発逆転を夢見るが――。詳しくは述べないが、無限回廊を思わせるラストショットには、夢も希望もない。
90年代当時と打って変わって、現在のスコットランドの景気は、ある程度改善している。だが青春をヘロインに継ぎ込んだマークたちは、社会から取り残されたままだ。マークには20年間音信不通だった、無職の年老いた父親がいる。終盤、マークが父親とハグするシーンがある。これは彼が、いままで否定してきた父親を――つまり、何もよいことのないまま年老いていく、自分自身の未来を――受け入れたということだろう。

両作を共に手掛けた監督のダニー・ボイルは、《T2》から徹底的にノスタルジーを排除している。それは音楽面からも分かる。《T1》で話題になったアンダーワールドの〈Born Slippy〉やイギー・ポップの〈The Passenger〉は、申し訳程度にかかるくらいだ(後者の使い方には皮肉すら感じる)。
サントラの中心になるのは、エジンバラの若手グループ、ヤング・ファーザーズだ。だが、《T1》のときには、当時のバンドの楽曲がマークたちの人生にリンクするように感じられたのに比べ、いまの若手たちの音楽は、あくまでもマークたちとは関係なく、エジンバラの街中で流れているだけのBGMのように響く。

むしろ耳を引くのは、クイーンの《Radio Ga Ga》や、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド《Relax》などの、ベタ中のベタなナンバーだ。《トレインスポッティング》でもルー・リードや、それこそイギー・ポップなど、過去の楽曲も使用されるが、それは音楽好きなマークたちの代弁者として機能していた。しかし《T2》での過去の楽曲使用は、中年になり、最新のシーンを追いかける気力も失ったマークたちが、過去を懐かしむことしかできない人間になってしまったことを意味する。ダニー・ボイルは、サウンドトラックひとつで、スコットランドの現状を暴き立てたのだ。
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ジェームズ・ガンの映画や音楽は、確かに楽しい。だがそれは、映画そのものから離れ、巧みにすり替えられた虚構の楽しさだ。一方《T2》のそれは、残酷なまでに、現実を直視させる。
もちろん映画はただ楽しいだけの娯楽であってよいし、音楽は日々の生活の息抜きであっていい。人生のサウンドトラックが十代の頃から更新されないとしても、それは人の自由だ。
だが《T2》のマークのように、過去から逃れられないまま、古びた「サウンドトラック」を回転させるだけなのも、一抹の寂寥を感じまいか。

わたしのiPhoneのアプリには、サウンドガーデンのデータも取り込んである。けれどまだ、その楽曲を再生する気にはなれないままだ。かといって最新シーンの新曲にも気持ちが向かわず、ただただ時間をやり過ごしている。
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noirse
同人誌「ビンダー」、「セカンドアフター」に映画/アニメ批評を寄稿