folios critiques ⑩|惜別:大岡信さん、戸口幸策さん、アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュさん|船山隆

folios critiques ⑩

惜別:大岡信さん、戸口幸策さん、アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュさん

text & photos by 船山隆(Takashi Funayama)

私はこの5月2日に数え年で77歳、喜寿の誕生日を迎えた。年を重ねるごとに生きることの悦びも感じるが、しかし喪失感と悲しみが深まるのも確かであり、その喪失感と悲しみの典型が恩師、友人、知人の逝去の知らせであることはいうまでもない。
昔こういうことがあった。かなり以前のことである。私が東京芸大の助手に就任した頃、当時の芸大の音楽学部長の池内友次郎先生を上野の精養軒からご自宅まで、角倉一朗助教授といっしょに、私の運転する車でお送りすることがあった。池内先生は、日本のほとんどの作曲家を育て、池内楽派の頂点にたつ大音楽家である。俳人高浜虚子の次男であった先生は「言葉の人」でもあり、先生の口から発せられる言葉は、寸鉄人をさすものであった。
先生は「私はこの頃は、新聞小説と死亡記事しか読まず、死亡欄に自分の名前が出ていないことで、自分の生存を確認している」と語り、ヒタヒタと笑い声を立てられた。当時30歳になりたての私は、その意味がわからなかったが、近年はいつの間にか新聞を死亡欄から読むようになっている。
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この4月6日の朝刊には、第1面に詩人大岡信さんの訃報が大きく出ていた。大岡さんは音楽に造詣が深く、同時代の作曲家とみごとなコラボレーションをなしとげた詩人である。
大岡と現代作曲家のコラボレーションの最初の例は、大岡の詩による武満徹のソプラノとオーケストラのための《環礁》(1962年)である。〈言葉を下さい〉という武満の要求に、大岡は、〈唇と唇がつくる地平線に/てのひらの熱いことばに/からだとからだの噴火口に/ひとは埋める/いのちと死がだきあっている/魂のシャム双生児を〉というたいへん官能的でエロティックな言葉で答えている。
大岡は後半生で、連歌や連句の伝統を踏まえながら、詩を共同制作する「連詩」を創始した。作曲家の一柳慧は、この大岡の連詩の構想によって《ベルリン連詩》という作品を発表して話題を集めた。
1985年には4人の詩人の共同によるリレー形式の《ヴァンゼー連詩》が発表された。私は1985年6月、大岡信と一柳慧の2人に長時間のインタビューを行ない、その記録は、 NHK交響楽団の機関誌に掲載されている。(『フィルハーモニー』1990年6月号)大岡信のように詩のなかですでに音楽を響かせている詩人がもういないと思うと心さびしいばかりである。
大岡信との長文のインタビューは1990年4月10日東京藝術大学の大岡研究室で行なわれた。大岡は1988年から1994年まで藝大教授のポストにいたが、私は大学で大岡に会ったという記憶はあまりなく、大岡は大学人や大学教授というような存在ではなく、あくまで「うたげと孤心」の詩人であった。
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大学人や大学教授であったのは、音楽史家の戸口幸策である。戸口は1927年生まれで、2016年9月17日にこの世を去った。私は藝大で戸口の講義をきいたことはないが、学生時代から多くの教えをうけ、家族ぐるみで修善寺温泉や軽井沢に旅行をし、しばしば酒席をともにして、実に多くのことを学ばせていただいた。戸口幸策の人と論文と思想については、〈戸口幸策先生の米寿をお祝いする会〉(代表津山英輔)が、内容のこい小冊子を出版している(2016年3月20日)。
〈戸口幸策による戸口幸策(自叙伝風に)〉という文章もあり、それらの文章をよむとそのきわめてユニークな人間、シャープな頭脳、あたたかい心がにじみでてくるように感じられる。戸口が常日頃主張していたのは、専門の音楽学者や音楽史家は、あくまで専門的な、世界的な視点に立った研究が重要で、啓蒙的な活動は二次的なものであるべきだ、ということである。
ここに1点、成城大学創立10周年記念論文集、別刷がある。<アルス・ノーヴァのフランス式記譜法のイタリアへの浸透をめぐる諸問題>というタイトルである。しかし音楽学者のなかでこのわずか22ページの論文を即座に読み通すことのできるのはごく限られた人であろう。専門的研究は専門の人にのみ意味があり、だからこそ戸口の外国語の論文、たとえばイタリア語の<トレチェントのイタリアのアルス・ノーヴァ>は、ニューグローヴ音楽事典のカッチアの項目にあげられているのである。
しかし戸口幸策は、J.P. サルトルがいうような〈くそまじめ精神 エスプレ・ド・セリュー〉ではなかった。広い視点にたって音楽を聴き、音楽を愛した音楽人でもあった。戸口の音楽評論集の《音の波間で》(1987年、音楽之友社)は、戸口がモーツァルトから武満までの幅広い音楽の愛好家であり、戸口幸策は自分のニックネームとして〈十愚痴交錯〉という名称を使い、そのニックネームで文章を発表したりしている。つまり戸口は稀にみる豊かな人間性と鋭い頭脳をあわせもつ人間であったのだ。《音の波間》の表紙の裏には次のような詩を掲げたりもしているのである。
「ひとが去って/花が散り/夕暮れの緑が/泪に映り/優しかった/むかしの歌の/萎れた香りが/想ひに映り」
戸口幸策がこの世を去ったことを悲しんでいる人は少なくないと思う。2017年3月12日(日)には、学士会館で「戸口幸策先生を偲ぶ会」が開かれた。出席者は130名以上で、最後に戸口の一人息子のピアニスト戸口純によってピアノの即興演奏が行なわれた。純ちゃんは、出席者の注文で、ベートーヴェン風、武満徹風などの自在な即興演奏を繰りひろげ、参加者は声をたてて笑った。支配しているのはDNAなのだろう。
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アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュに最初に会ったのは、1986年10月、氏が、フランス政府文化省音楽局長の地位を退いたばかりの音楽評論家、故モーリス・フルーレとともに日本を訪れたときである。私はアンリ=ルイに、東京藝術大学音楽学部楽理科での公開講演を依頼し、そのとき行われた講演原稿は、『音楽芸術』誌(1986年12月号、1987年1月号)に掲載された。
私が次にアンリ=ルイに会ったのは、1986年12月、当時執筆中の小さなマーラー評伝の取材のために、マーラーの郷里のカリシュトやイーグラウやウィーンへの旅行の途中でパリに立ち寄ったときに再会した。アンリ=ルイの住居は、パリ第8区の閑静なヴェズレイ街にあり、豪華で広いアパルトマンの一部は、創設されたばかりの「グスタフ・マーラー音楽図書館」(財団法人)のために提供されていた。そこにはアンリ=ルイ自身が収集したグスタフ・マーラーの自筆譜をはじめ、マーラーの使った指揮棒や眼鏡、マーラーの楽譜や世界各国語で書かれた研究書などが一堂に集められ、一般のマーラー研究家に供されていた。彼自身の広い書斎に入ると、マーラー研究用の特別なキャビネットがいくつも並べられ、例えば「1899年」というボックスを手前にひくと、この年のマーラーの、作曲活動、演奏活動、新聞や雑誌の批評など、あらゆる資料がみごとに整理されて収納されていた。
いまさら言うまでもなく、アンリ=ルイは、1959年以来、マーラーの伝記的研究に専念している。氏の3巻から成る未邦訳の長大なマーラー評伝、《栄光への道 1860年―1900年》《ウィーンの黄金時代 1900年―1907年》《震撼させる天才 1907年―1911年》――各巻1200ページ、計3600ページ、重さにして約5キログラム(!)――は、マーラーに関する徹底した資料収集とその整理と分析によって執筆されている。
氏は、マーラーの人間とその生涯のすべてを、「資料」に語らせるという厳格な方法を取っている。この3巻からなるマーラー評伝は、この作曲家にかんする基本的伝記として長く歴史に残るものであろう。
アンリ=ルイの3巻のマーラー評伝は、その後、英語、スペイン語、イタリア語などにも訳出されている。写真は、私が一昨年の春、マーラー図書館を訪問した時に、その3巻の本を目の前にして写したこの偉大なる評伝作者の姿である。
私はアンリ=ルイに津山国際総合音楽祭で会ったり、パリの図書館で会ったり、しだいに親しくなった。アンリ=ルイは、パリでは自宅の一室を何度か私のために提供して下さり、またパリを訪れた長男もそこに泊まったこともあった。実は冒頭に名前の出たモーリス・フルーレは57歳で逝去したが、アンリ=ルイと一緒に生活していた。私の泊めていただいた部屋は、フルーレの住んでいた部屋で、壁全体がブルー一色にぬられていたことに驚かされた。
私がアンリ=ルイに初めて会ったのは、この項の冒頭に記したように、1986年であるが、アンリ=ルイとモーリスは、1972年に日本旅行に来ていて、琵琶の鶴田錦史と日光で撮影した写真が残されている。おそらくその日本旅行の直後、1972年12月にアンリ=ルイとモーリスは、クセナキス、ジョラスそして武満徹とともにインドネシアのジャワ島とバリ島に2週間滞在した。武満浅香夫人も同行していた。1978年10月の「パリの秋」フェスティバル が開かれ、武満の作品が広くパリの聴衆に知られるようになったが、アンリ=ルイとモーリスの協力によるところが多かったと思う。
アンリ=ルイは実に繊細な感覚の持ち主であると同時に、博覧強記の音楽学者であった。アンリ=ルイは1990年に《ヴィーン  1100年から1848年までの音楽史》を出版している。この類例のない音楽史の本は、冒頭に「モーリス・フルーレの思い出に」と記されている。この著書で示されている該博な知識はまさに驚くべきである。また世界各国の大学で講演を続けていたアンリ=ルイは、それらの講演の記録を日本語で出版したいということで、井上さつきと私はその翻訳に取り組み、《グスタフ・マーラー  失われた無限を求めて》(青土社、1993年)という日本語でしか読めない本が出版された。
アンリ=ルイが70歳の誕生日を迎えた年に、<ノイエ・マーレリアーナ>という記念論文集(ペーター ラング社 1997年)が出版された。オスカー・ココシュカの描いたアンリ=ルイの肖像のスケッチが第1ページに飾られ、世界の著名な音楽学者が専門的なエッセイを寄稿している。ヘルタ・ブラウコフ、コンスタン・フローロス、ドミニク・ジャムー、ドナルド・ミッチェル、フランソワ・ルシュール、ダニエル・ピストーヌ、レミー・シェトレッカーetc、etc。
ドナルド・ミッチェルはアンリ=ルイの親友で、アンリ=ルイは、自分の脚がだいぶ不自由になったにもかかわらず、ドナルドの病気を心配してロンドンまで出かけたという。
92歳で亡くなったのだから天寿を全うしたとも言えるだろう。しかしこうして弔辞を認めていると、あれこれの出会いの時が思い出されて、人生の悲哀だけが感じられ、後悔の念だけが残る。
アンリ=ルイは、モロッコのマラケシュに別荘をもっていて、寒い季節にはパリを離れるのが常であった。何度かマラケシュに来るようにという誘いをいただいたが、碩学とともに過ごすことのできる絶好のチャンスだったのに、それも逃してしまった。
これ以上愚痴を並べても詮方ない。アンリ=ルイの訃報に接してから想うのは、もう一度、私自身のグスタフ・マーラー像を探求してみようということである。
私は、この5月24日(水)17:40〜、「異邦人グスタフ・マーラー〜〜楽都ヴィーンの天才作曲家」というレクチャーを、郡山文化協会の主催で、郡山ビューホテル で行います。アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュの3巻のマーラー評伝は、いつものように1種の辞書のような役割を果たし、永遠の参照点になると思います。合掌。

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船山隆(Takashi Funayama)
福島県郡山生まれ。東京藝大卒、パリ第8大学博士コース中退。1984年より東京藝大教授、2009年同名誉教授。2014年より郡山フロンティア大使。1985年『ストラヴィンスキー』でサントリー学芸賞受賞。1986年芸術選奨文部大臣新人賞受賞。1988年仏の芸術文化勲章シュヴァリエ受賞。1991年有馬賞受賞。東京の夏音楽祭、津山国際総合音楽祭、武満徹パリ響きの海音楽祭などの音楽監督をつとめる。日本フィルハーモニー交響楽団理事、サントリー音楽財団理事、京都賞選考委員、高松宮妃殿下世界文化賞選考委員を歴任。