カデンツァ|検定・和楽器店に差し替え、の話|丘山万里子

検定・和楽器店に差し替え、の話

text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

来年2018年4月から小学校の道徳の時間が<特別の教科 道徳>として教科化、成績評価の対象となる。先般、その初の教科書検定が行われた。その際、学習指導要領にある「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という項目の記載が不足として、パン屋が和菓子屋に、公園のアスレチックが和楽器店に差し替えられた。子供たちの給食をおおいに担っているパン屋さんたちはこの扱いに怒ったが、和楽器店に替えられた公園のアスレチックは沈黙を守っている。アスレチックに何が起きたか見てみると、こういうことだ。
学研教育みらいの『みんなのどうとく』(1年)は「大すき、わたしたちの町」と題して町を探検する部分に、アスレチックで遊ぶ公園の写真を使用したのだが、「伝統・文化の尊重、郷土愛の不足」を反映させるため(個別の指摘はしていないとの文科省の言だが)、和楽器店に差し替えた。
小学生の行動範囲たる「わたしたちの町」にどれだけ和楽器店があるか、はなはだあやしいもので、私の周囲を見回したところでは、アスレチックはそれなりに見かけるが、和楽器店は皆無。だからこそ、なのだろうか。

この一連の騒動に、私は2002年から実施の中学校音楽教育における和楽器必修化を思い起こした。その前年の9月、「学校で邦楽学習ってどういうこと?」と文科省の役人にインタビューをしたのだが、一週間後に NYテロが起きた。役人(文部科学省教育課程調査官と初等中等教育局教育課程課の二人)への私の最後の質問は「最近、文明間の衝突ということが言われますが、自国文化と異文化間の衝突というイメージは?」だった。
私は別段、和楽器必修化に異議を唱えるつもりはなく、学校音楽教育の今後についてきちんと知りたかっただけだ。同時に、グローバリゼーションの一方で高まる民族主義と排他主義、偏狭な愛国主義の流れをどう考えているか、も知りたかった。だって、すべての基本は「教育」にあるのだから。そうして、音楽教育は、ある意味、グローバルとローカルをいっぺんに俯瞰、体感できる領域でもある。自国文化、すなわち自国音楽をどう取り扱い、教育に反映させるのか、は大事な問題だ。したがって、「衝突」についても聞いておきたかったのだ。直後に起きた「衝突」から、今日の世界はさらに危機的状況にある。

その時のインタビュー記事を引っ張り出してみた(『ブリーズ』no.51,52)。調査官たちの発言の要旨を実践と理念の二つに分けて拾ってみよう。
まず邦楽学習の実践について。
明治期、伊沢修二が和洋折衷路線を目指したにもかかわらず、西欧の明確なシステムやメソッドに、邦楽のアバウトなやり方が席巻され、西洋一辺倒になった反省から、日本の伝統音楽の重要性が説かれたのは1958年の学習指導要領において。
そこからホップ・ステップ・ジャンプで、まず「鑑賞」、次に「和楽器の適宜使用」、そして「表現と鑑賞の中で必修」となった。「豊かな人間性や社会性、国際社会に生きる日本人としての自覚を育成すること」を眼目に、今回和楽器と伝統的な歌唱が導入された。
指導は地域の学校、教育委員会に任せる一方で、教員を目指す学生は2000年から和楽器、伝統的な歌唱法が必履修、すでに教員になっている人々には研修(この時点で2、3年前から、とのこと)を、と体制作りをしている。

さて、現状はどうなっているかを身近で少し調べてみた。
某区立で使用している小学3、4、5年と中学2、3年の音楽教科書を見ると。
小3は邦楽系は見当たらず、小4で『ソーラン節』など民謡系が3曲ほど、5年『春の海』で琴、尺八の紹介、『さくら』で日本音階を学習、曲を作ってみよう、みたいなのがある。4月から小5になった男子に聞くと、日本の音楽っぽいのといえば小4の時にやった『こきりこ』くらい。
一方、中学になるとかなり増える。表紙も洋楽・邦楽両方の楽器を掲載だ。歌舞伎から始まり、長唄、文楽、郷土芸能、雅楽(篳篥の唱歌を歌ってみよう、なんて課題もある)、能と、おおよそを押さえたラインアップ。巻末には日本と西洋の音楽史を上下に対応させた表がある。別冊の器楽学習本は琴、三味線、太鼓、篠笛、尺八などそれぞれ楽器説明、奏法など詳細が写真入りでほぼ4ページずつ。相当、力が入っている。
ちなみに小中とも欧米以外の音楽については中国、韓国、モンゴル、インドネシアなどアジアは4~6カ国くらいか。
中学から和楽器必修化といっても楽器はほとんどないのが実情(実施から15年)。中3女子は中学になってからリコーダーしかやっていない、と言っていたが、6月に歌舞伎見学があるそうだ。アイドル嵐に夢中な彼女に歌舞伎がどう映るのか、楽しみではある。

というわけで実践は教科書にはあっても、それを教えられる教員や講師の圧倒的な不足と楽器不足で(とりあえずビデオを見せて、というのが苦肉の策とか)苦戦のようだ。
2001年の時点で役人は「ここ1、2年で子供たちは今まで聞いたことのない邦楽の音を教室で聞くようになって、異口同音に楽しい、素晴らしいという反応があります。」とか、5年後10年後には指導ができる新採用の先生たちが現場で活躍するだろう、とか、学校での邦楽体験が生涯学習に繋がる可能性がある、とか、期待を込めていたが。

次に、理念(日本人としての自覚と国際性)についての発言要旨は以下。
伝統音楽に触れることによって、自国文化の良さとかすごさは西洋とは違うところにあることに気付く。それが自国の文化の良さや特質を知り、それらを愛したり、尊敬したりすることにつながり、日本人としての自覚を育んでゆく。
古くから連続した文化の中にある生命力、エネルギーが何なのかに気づく(覚醒)ことが大事で、それを土台にして新たなものが生まれ再創造(発現)されてゆくことが素晴らしいことなのである。日本人としての自信と誇り、先人の文化との繋がりを自覚し、人前で自分の意見をきちんと言えるようになるのが国際感覚なのだ。
音楽などは特に西欧一辺倒で自国文化の根っこが見えなくなってしまった、独自性をかなぐり捨ててしまった、その休眠状態を覚醒させる、それがイコール国粋主義とは思わない。
音楽など素晴らしい芸術に触れることで深い感動を味わう心の働きは、公正さや正義感などを支えているものだ。音楽教育で育てる感性や養う情緒は、美への心と、その反対にあるものへの洞察を含まねばならない。

「文明間の衝突」への答えは以下。
文化受容とは異文化の衝突を基盤になる文化に内在化していくサイクルで、我が国は外来文化と衝突せず、うまく取り入れてこなしてきた。しかし今日のように情報化社会、急激なグローバリゼーションが進む社会では、かつての緩やかな時間のサイクルの中で単に受身的であった捉え方ではいけない。自国の文化を見つめ直す意識の顕在化と新たな文化を積極的に生み出そうとすることの同時的な取り組みが一層求められる。

さて、道徳の教科書に和楽器店をねじ込んだ(出版社に「忖度」させた)検定と文科省の邦楽学習の実践と理念は、当然のことながら軌を一にする。
「覚醒」と「発現」か・・・。
昨今の森友学園騒動だの『教育勅語』問題だの、この「覚醒」と「発現」そのものじゃありませんか。
アスレチックの和楽器店差し替えにふと考えたのは、衝突せずに外来文化を内在化してゆく日本の特質を「受け身」とし、覚醒せよ!と伝統楽器を持ち出す(忖度させる)思考パターン。
「公正」や「正義」、「美への心」と「その反対にあるものへの洞察(何なのだ、それは?)」を育む音楽教育・・・「公正」や「正義」なんて、時代と為政者でコロコロ変わるのはトランプがいい例だ。
我が国の為政者は私たちに何を覚醒させたがっているのか。

ちなみに、中学教科書には團伊玖磨、晩年の駄作『建・TAKERU』(1997年新国立劇場こけら落とし新作/ヤマトタケル物語・再演なし)のステージ写真が大きく掲載されていた (團は戦時の人間と社会を告発した名作『ひかりごけ』の作家でもある。再演回数抜群の『夕鶴』なら頷けるがこちらはタイトルのみ紹介)。これも忖度の一つ、だろうか。