小人閑居為不善日記|ラ・ラ・ランドからの逃亡|noirse

ラ・ラ・ランドからの逃亡

text by noirse

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わたしはミーハー体質で、お祭り騒ぎに弱い。グラミー賞とアカデミー賞の授賞式は特に好物で、毎年2月になると気もそぞろになり、当日は朝からTVにかじりつくのが常だ。

昨年のグラミー賞授賞式は、「ブラック・ライブス・マター」一色に染まった。アメリカ各地の警官による黒人殺傷事件を契機として、全米中で巻き起こった、反差別運動に反対する黒人ミュージシャンの作品が高く評価され、白熱のパフォーマンスを行った。

それから1年。彼らの願いは、トランプ大統領就任で、さらに裏切られる結果となった。今回の授賞式は昨年以上にとんでもないことになるのではと、わたしは期待した。

しかしフタを開けてみれば、それは空振りに終わった。ヒラリーを支持し続けたケイティ・ペリーや、久々の新作を引っ提げてステージに立ったア・トライブ・コールド・クエストら、何組かの音楽家たちは反トランプのメッセージを掲げたが、授賞式全体がそのような気運に包まれていたかと言えば、そうでもなかった。

今年のグラミーは、ビヨンセが最多ノミネートされていた。ビヨンセの新作《レモネード》は、やはりブラック・ライブス・マターに共鳴した、メッセージ性の強い作品で、最高傑作とも評された。
だが受賞したのは、英国の歌姫アデルだった。アデルが悪いわけではない。しかしアメリカに暴風が吹き荒れる中、淡々と白人のアルバムに賞を与えるというグラミーのジャッジは、それ自体がメッセージと受け取られても仕方のないことだろう。

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さて、これを書いている今は、アカデミー賞授賞式が終わった直後だ。

昨年のアカデミー賞は、激しい非難の的となった。主要賞のノミネートが白人ばかりで、有色人種の俳優は一切いなかったからだ。メッセージ色の強さが好評だったグラミーとは天と地の差だ。

その反省を受けて、今年のアカデミー賞のノミネートは、黒人の監督や役者が関わった作品が多くノミネートされた。だがその前に立ちはだかった壁がある。若干32歳の俊才、デミアン・チャゼルが監督したミュージカル映画《ラ・ラ・ランド》。各映画賞を総ナメにし、アカデミー賞でも《タイタニック》と並ぶ最多ノミネート、下馬評は《ラ・ラ・ランド》一色に染まった。

だが《ラ・ラ・ランド》も、ある批判に晒されていた。やはり人種問題についてだ。
主役のライアン・ゴズリングが演じるのはジャズ・ピアニストで、《ラ・ラ・ランド》はジャズ界の内幕ものにもなっている。ところが主たる配役は、ほぼ白人で締められていた。ジャズはもちろん、黒人が生んだ音楽だ。ところがキャストは白人ばかり。
まったく黒人が出ていないわけではない。唯一の主要黒人キャスト、ジョン・レジェンドは、ジャズバンドのベーシスト役で出演している。だが彼は、成功のためにプライドを捨てた人物として描かれている。これでは批判されるのも無理はない。

さて、結局作品賞は、黒人スタッフやキャストが集結した《ムーンライト》が受賞。《ラ・ラ・ランド》は監督賞や主演女優賞など、6部門を受賞するに留まった。ポーズのように感じなくもないが、穏便に終わったグラミーに対し、アカデミーは、大方の予想を覆してまで、多様性を打ち出すことに成功したと、ひとまずは言えるだろう。

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《ムーンライト》はまだ公開前だが、《ラ・ラ・ランド》は既に上映中だ。わたしも受賞式を前に、いそいそと見に行った。
よくできているとは思う。楽曲や色彩デザインは素晴らしい。一方で、確かに保守的でもある。わたしは特に、その懐古趣味が気にかかった。

デミアン・チャゼルは映画マニアで、過去の名作への憧憬や目配せにこと欠かない。思わずノスタルジックな気持ちに誘われる要素に満ちている。
過去への憧憬は悪いことではない。わたしも昔の映画や音楽は好きだ。だが30歳そこそこの若い監督が、懐古的に過ぎる作品を作ること、そして権威ある賞がそういう作品を積極的に推挙するという図には、ちょっとノレない。

ミュージカルは、内幕もの、いわゆるバックステージものが多い。よって必然的にメタフィクション化しやすい傾向にある。文学研究者の小山内伸氏は、著書《進化するミュージカル》で、そういったミュージカル作品を「メタ・ミュージカル」と名付けているほどだ。
だがミュージカルの場合、前衛文学のように、メタ構造が過剰に批評的だったり実験的に作用することは少ない。その代わり、作品が懐古的ムードに陥りやすい傾向がある。

《ラ・ラ・ランド》は、ミュージカル映画史に燦然と輝く名作《雨に唄えば》や《バンドワゴン》へのオマージュを散りばめているが、この2本もやはりバックステージもので、どちらも、「古き良き時代」を慈しみ、肯定する内容になっている。だが今や《雨に唄えば》も《バンドワゴン》も立派な古典であり、ノスタルジーの対象だ。
《ラ・ラ・ランド》は、《雨に唄えば》や《バンドワゴン》へオマージュを捧げる。《雨に唄えば》や《バンドワゴン》も、さらに過去の作品にリスペクトを表明する。ノスタルジーの無限後退。まるでウロボロスの蛇のようだ。

《ラ・ラ・ランド》の見せ場のひとつに、ミュージカル映画の名作の数々を思わせる映像の断片が、次々と浮かんでは消えていく、作品自体を凝縮したようなシーンがある。幸福なイメージに満ちた場面だが、ここで引き合いに出される映画がある。デヴィッド・リンチ監督の《マルホランド・ドライブ》だ。
《マルホランド・ドライブ》も映画界の内幕ものだ。スターに憧れてハリウッドにやってきた女優の卵の辿る顛末を迷宮のように描き、高く評価された。
デヴィッド・リンチも、古き良きハリウッド映画や過去の音楽を好み、ノスタルジックな意匠を施す監督だ。だが彼は、それを悪夢として表現する。過去の栄光から抜け出せず、悪夢に閉じ込められた人間の末路。ノスタルジーとは、人間を過去に束縛し蝕む、危険なものでもある。
《マルホランド・ドライブ》と《ラ・ラ・ランド》は表裏一体だ。物語自体はさほど変わらない。それを甘美な夢として描くか、悪夢とするかの違いに過ぎない。

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最後にもう1本、ロバート・ゼメキス監督の最新作《マリアンヌ》を紹介したい。ゼメキスもまたシネフィリーで、マニアックで懐古的な作品が目立つ。圧倒的に有名なのは《バック・トゥ・ザ・フューチャー》だが、これも典型的なノスタルジー映画だ。

《マリアンヌ》は二次大戦中、ヴィシー政権下のカサブランカに、連合軍の工作員が潜入するところから始まる。露骨に《カサブランカ》の世界だ。《ラ・ラ・ランド》でも《カサブランカ》に言及するシーンがあるが、《マリアンヌ》はド直球である。

だが最後になって、わたしのその先入観は覆った。《マリアンヌ》には感動的なラストが用意されているが、注意深く見ると、その綺麗な幕引きが真実かどうか、物語上判断できないようになっている。ひらたく言うと、「あのラストは偽りかもしれない」という疑いを残したまま終わるのだ。

それに気付いたとき、今まで見ていたノスタルジックな世界が、ガラガラと音を立てて崩れていくように感じた。この甘美な物語はデコレーションされたニセモノで、真実はそこにはないと、付き付けられたとでも言おうか。巷間噂される、「ポスト・トゥルース」や「オルタナ・ファクト」の時代に、何ともふさわしい映画ではないか。

思い出とは甘美なものだ。しかし過去のみにこだわり、周りを試みず、現実に目を背け続ければ、いつしか人は「ポスト・トゥルース」の罠に絡めとられかねない。「アメリカン・ファースト」という言葉の裏には、「アメリカが強かった時代」へのノスタルジーがベッタリ貼り付いている。
もちろん映画をクローズドな夢の世界としてのみ楽しむのは構わない。過去の思い出に浸るのもいい。しかし、いつかは《バック・トゥ・ザ・フューチャー》の主人公マーティのように、そこから脱出しなくてはいけないときが来る。

今年のアカデミー受賞式は、封筒の取り違えで、作品賞が本来の《ムーンライト》ではなく、誤って《ラ・ラ・ランド》だと発表されてしまうというハプニングが起きた。《ラ・ラ・ランド》のスタッフやキャストには悪いが、夢から現実へ突き落されるという点で、この珍事は《ラ・ラ・ランド》的であり、《マリアンヌ》的でもあった。
今年のアカデミー賞授賞式は、そのようなことをつらつらと思わせる、やはり面白いショウだった。

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noirse
同人誌「ビンダー」、「セカンドアフター」に映画/アニメ批評を寄稿