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東京交響楽団 第648回定期演奏会|大河内文恵

東京交響楽団 第648回定期演奏会

2017114日  サントリーホール
Reviewed by 大河内文恵(Fumie Okouchi)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
秋山和慶(指揮)
小菅 優(ピアノ)

<曲目>
メシアン:交響劇瞑想「忘れられた捧げ物」
矢代秋雄:ピアノ協奏曲
(ソリスト・アンコール)
メシアン:『前奏曲集』から 1.鳩

~(休憩)~

フローラン・シュミット:バレエ音楽「サロメの悲劇」作品50

 

メシアン、矢代、フローラン・シュミットと一見なんの脈絡もないようにみえるプログラムだが、実は矢代秋雄を軸にして繋がっている。メシアンは矢代がパリ音楽院に留学した当時の和声科の教授であり、フローラン・シュミットは、本人の想像以上に低い評価となった矢代の卒業作品を、ただ2人高く評価した審査員のうちの1人であった。

矢代は46歳という若さで突然亡くなってしまったこと、寡作であったこと、前衛全盛の時代にアカデミズムの牙城ともいえる東京芸術大学作曲科の教授を務め、いわゆる前衛作曲家とは距離を置いていたことなどから、「忘れられた作曲家」になりかけている。しかし、前衛も遠くなりつつある現在、再評価が進み、没後40年を迎えた2016年にはいつくかの作品が演奏された。自筆譜ファクシミリという形で残されている習作時代の初期作品(その中には、オーケストラ部分はコンデンス・スコアながらピアノ協奏曲もある)も含め、別の演奏者によって何度も演奏されることで、彼の作品の中にタイムカプセルのように閉じ込められてきた音楽が甦るのではないだろうか。

メシアンの後半部分の天上的で瞑想的な美しさは、生の演奏ならではの胸にせまる響きを感じさせたが、圧巻だったのは矢代のピアノ協奏曲であった。この曲は昨年亡くなったピアニスト中村紘子を初演ソリストとして想定して作曲されており、彼女の持つ華やかな雰囲気を生かした曲作りがされているが、楽譜を眺めると、まるでピアニストの根性を試すかのような技巧の連続である。

冒頭の「ミファーミファーミファレ♭ミー」という動機は、オーケストラで演奏される時にはこの通りの音型だが、曲の冒頭のピアノが演奏する部分では、右手の3つのファと最後の♭ミは1オクターヴ上の音、つまり手を広げた不安定な状態で、しかもそれを小さな音量で弾かなければならない。協奏曲の冒頭でピアニストにこんなことをさせるのは、よほど信頼した相手でなければできないことである。

だが、小菅は事もなげにさらっと弾いてしまう。それどころか、フルートなど特定の楽器とピアノとの遣り取りがおこなわれる場面では、鍵盤から目を離し、ずっと相手の奏者とアイコンタクトを取りながら演奏している。まるで、「ここは指揮者なしでも大丈夫」とでもいわんばかりに。ピアニストとしてというよりもアンサンブル奏者としての小菅の本領が発揮されたといえるだろう。

圧倒的な音楽を聴かせ続けた小菅は、とくに3楽章のソロ部分でオーケストラ・メンバーの魂に火をつけたようで、その直後からオーケストラのボルテージが一気に上がったのがわかった。すでにもう、指揮者ではなく小菅がオーケストラを引っ張っている。

強靭なテクニックでオーケストラを圧倒し、ピアノ協奏曲の「場」を制するピアニストを時折みかけるが、小菅はそうではない。あくまでアンサンブルの1人としてピアノを弾いているだけなのに、いつのまにかオーケストラがそれにひきつけられて彼女とメンバー各々が見えない糸で結ばれていく。

鳴り止まぬ拍手の後、ソリスト・アンコールはメシアンの前奏曲集から第1曲『鳩』。それまでの豪気な演奏とは正反対の繊細な音楽からは、小菅の中のピュアな部分が存分につたわってきた。

さて、後半。「サロメ」というとリヒャルト・シュトラウスのオペラが有名だが、こちらはパントマイム劇への付随音楽として作曲されたものである。のちにバレエとしても上演されたが、評判は芳しくなかったという。

サロメの物語から想起されるおどろおどろしさはほとんどなく、あくまで美しい音楽が続いていくが、1曲目にヴァーグナーを思わせる響きがあったり、2曲目にはストラヴィンスキーのバレエ音楽と聴きまがう箇所があったりする。それもそのはず、この作品はストラヴィンスキーのいわゆる三大バレエとほぼ同時期につくられ、バレエ初演はあの、『春の祭典』初演の2週間後であった。第3曲にはほぼ同時代人であるドビュッシーのような響きが聞かれ、第5曲では再びストラヴィンスキーが戻ってくる。

これまで日本では演奏される機会が少なかったようだが、20世紀初頭のビックウェーブを一度に味わえる、聴き手にとって嬉しい曲であることは間違いなかろう。今回、演奏の美しさや迫力は堪能できたが、1つだけいわせていただければ、もう少しバレエ音楽らしい演奏だったら良かったのではないか。さらにこれが「バレエ」として上演されたら、と妄想は膨らむばかりだが、いかがだろうか?