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新日本フィルハーモニー交響楽団第568回定期演奏会|齋藤俊夫   

新日本フィルハーモニー交響楽団 ジェイド〈サントリーホール・シリーズ〉第568回定期演奏会

2017126日 サントリーホール
Reviewed by 齋藤俊夫
Photos by 林喜代種

<演奏>
新日本フィルハーモニー交響楽団
指揮・お話:井上道義
歌:大竹しのぶ(+)
ピアノ:木村かをり(++)
ヴァイオリン:崔文洙(*)
クラリネット:重松希巳江(*)
チェロ:富岡廉太郎

<曲目>
シャンソン『聞かせてよ愛の言葉を』(蓄音機EMG Mark Xbによる再生、蓄音機提供マック杉崎)
(以下作曲は全て武満徹)
『死んだ男の残したものは』(+)(オーケストラ版編曲:山下康介)
『二つのレント』(++)(抜粋)
『リタニ――マイケル・ヴァイナーの追憶に――』(++)(1989)
『弦楽のためのレクイエム』(1957)
『グリーン』(1967)
『カトレーン』(オーケストラ版)(++)(*)(1974-75)
『鳥は星形の庭に降りる』(1977)
『訓練と休息の音楽――「ホゼー・トレス」より――3つの映画音楽』(1959/1994-1995)
『ワルツ――「他人の顔」より――3つの映画音楽』(1966/1994-1995)

 

冒頭の蓄音機によるシャンソン『聞かせてよ愛の言葉を』を聴いて、「武満が夢見ていた音楽」を目の当たりにしたような気分がした。手回し式蓄音機によるSPレコードは、ノイズの中からかろうじてかぼそく歌声が聴こえるようなものだったが、しかし、どうしても愛せざるを得ない魅力に満ちていた。このような音楽を武満はずっと想っていたのか、と思わされた。

大竹しのぶの『死んだ男の残したものは』は大竹の渋めで深い声によるプロテスト・ソングとして白眉のものであった。世界が憎しみに満ちていく中、この歌は歌い継がれていかねばならない。武満が歌にこめた思いを新たに感じた。

次の『リタニ』は(『二つのレント』は冒頭だけが抜粋演奏された)旋律的な輪郭線のはっきりした演奏。訴えかけるような悲痛な第2楽章のフォルテが印象に残った。

そして現代の古典『弦楽のためのレクイエム』、井上の采配による繊細微妙なデュナーミクの弾き分けが得も言われず美しい。全くベタつくことなく、悲劇的ではあるが「劇的」な押し付けがましさとは無縁の演奏。しかしフォルテの部分でも一人一人、一音一音の音の粒が立っている。素晴らしい。こんな武満と出会えるとは。

その後の3曲は筆者にとっては初の生演奏体験であったが、しかしなんと贅沢な初体験であったことか。

『グリーン』、冒頭の数十秒で魂を持っていかれた。なんと甘やかで優しい音世界だろうか。聴こえる全ての音が愛おしい。伝統的には不協和音とされるはずの音の重なりも優しく耳に届く。今回の井上の解釈は旋律的な音を辿るのではなく、全体の音響に注目したものと筆者には聴こえた。音の河に束の間たゆたい、そして音の河は流れ続けつつどこかへと去って行く。

『カトレーン』、これもまた甘く柔らかなオーケストラ。しかしソリスト4人のアンサンブルは硬質に響く。だがオーケストラとソリストが対峙するのではなく、お互いにお互いを引き立たせ合っている。レイ・ブラッドベリの短編小説で「風と、 風に吹かれる凧はお互いを美しくし合っている」という箇所があったが、まさに今回のオーケストラが風ならばソリストは凧。どちらか一方だけではあり得ない音楽を聴かせてくれた。

そして武満中期を代表する傑作『鳥は星形の庭に降りる』の壮大さと繊細さが調和された美よ。どのパートも塗りつぶし合うことなく、調和しかつ個性的に鳴らされる。作中、度々聴こえてくるスフォルツァンドの音も全く濁ることなく響き渡る。『グリーン』と同じく、この作品でも旋律的に聴こえてくる継起的な音の輪郭を立たせるのではなく、一瞬一瞬の音響の色彩に注目した解釈であり、その豊かさたるや、涙なしには聴けないほどの感動であった。

アンコール的な『3つの映画音楽』よりの2曲は井上もリラックスして踊るように指揮をしていたが、しかし決して凡庸な音楽ではなく、『他人の顔』のワルツは冒頭のシャンソンを想起させ、今回の武満個展の締めくくりに相応しい音楽と思えた。武満が追い求めたものを次の世代、さらに次の次の世代がずっと追い求めていくことこそが彼の遺志であろう。武満の音楽は終わっていない。