カデンツァ|「音」の編纂者 柴田南雄|丘山万里子
text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
今年は柴田南雄メモリアル・イヤー。
私は柴田の熱心な聴き手ではなく、船山隆氏に、柴田をどう思うかと聞かれ、あまり関心はない、と正直に答えたら、本の1冊も読んでは?何にでも興味を持たないと老化しますよ、と言われた(それなりに読み聴きはしてきたが)。で、改めて10冊近くと、CDなどを机の上に積み上げ、トライした。
だが、やはりしっくりこない。
過去に書いたコンサート評なども引っ張り出し、同じような感覚を記しているのを読み、これはなんなのだろう、と考えた。
11月初頭に記念演奏会(11/7@サントリーホール)がある。大作『ゆく河の流れは絶えずして』(1975)の27年ぶりの上演がなんといっても話題だし、生の音をもう一度聴いたらはっきりするかもしれない、と出かけた。9月にあった『萬歳流し』(9/6@神奈川県立音楽堂)も聴いておいた。
当夜のプログラムは『ディアフォニア』(79)『追分節考』(73)『ゆく河の流れ〜』。
『ディアフォニア』は12音、不確定性、ロマン主義の構成で『ゆく河の流れ〜』の前半みたいなもの。シアター・ピース第1作『追分節考』は、『ゆく河の流れ〜』の後半に映っている。
神奈川県立音楽堂の『萬歳流し』(75)では、客席を練り歩く歌人たち、という体験に満員の聴衆がキョロキョロ周りを見回し、大きな興味を示していたし、『追分節考』も『ゆく河の流れ〜』の後半も同じ反応で、私は自分が初めてこれらの作品に接した時のことを思い出した。
1982年、第13回サントリー音楽賞記念コンサート2夜は《民族の伝統を甦らせる前衛・柴田南雄の宇宙》と題し、西洋現代音楽の流れに呼応しつつ、70年代に入ってその足場を日本の民俗音楽に移し、一連のシアター・ピースを生み出した柴田の創作の10年からシアター・ピース6作を選んだもの。『追分節考』から『宇宙について』(79)まで、私はその「動く」音響世界の壮大渾然を面白くは感じたし、キョロキョロもしたが、「素材と創作を結ぶどこに作者が位置するのか、指揮者の指示や演奏者の自発によってどうのようにも変化しうる音の場としてのシアター・ピースは、いわば引用と不確定性によって作者の姿をおおいかくす。それは“私にとって表現とは”の“私”は何かを逆に問うてくるものであり、その背後にどのような思想が存在するのか創作行為の意味を様々に考えさせられた。」(82/音楽旬報)と書いている。
一方、1989年都響《日本の作曲家シリーズ5 柴田南雄作品集》での14年ぶりの再演『ゆく河の流れ〜』(他2曲)については、それがちょうど昭和天皇崩御間もない時期であったことに感慨を覚えつつ、西欧から日本への音の昭和史に重なる柴田の精神の足跡と今日立つ地点への展望に、見いだす意味は大きい、と述べている。(89/音楽旬報)
今回の『萬歳流し』や記念演奏会で受け取ったものは、手法としてのシアター・ピースのエフェクトは、今日も有効であろうが、私自身はやはりそれにあまり動かされない、ということ。記念演奏会では、うちわに書いた文字を掲げて指示を出す指揮者や、客席を歌いながら動く合唱隊につい気が行き、仕掛けが音への没入を妨げる感覚が否めない。そうして、コンサート全体の流れを、「教科書を読んでいるみたいだ」と感じた。その感触は、つまり「柴田は音の編纂者だったのだ」という了解に着地した。
「編纂者」に至ったについては、このところに出会った以下の言葉がある。
まず、大久保賢著『黄昏の調べ』(春秋社:本号の書評で紹介している)。
「ブゾーニの“作品”の大半は自作、他作の“編曲”であり“編集”である。」(<既製品への寄生>の項)
「作曲家に求められるのは“創造性”よりも、既存のものを活かす“創意”である。何かを“発明”することではなく“発見”することである。」(<芸術から職人芸へ>)
次に10月末の「作曲家の個展Ⅱ」のプログラムノートで野平一郎が述べていたこと。
「そもそも“自作”であってもそれは他人の作品から始まる。〜われわれは何らかの記憶によって自作の素材を生み出すのであり、それ自体まったくの“自作”ということはまずありえない。」
次に本誌11月号特別寄稿『“歌”の簒奪者ボブ・ディラン』で紹介されているディランの言葉。
「既にある歌を作り換えているだけで、何か特別なことをしているわけじゃない」
「編纂」とは、『大辞林』によれば、「いろいろな材料を集めて整理し書物をつくること」。『新字源』には「纂」は糸と算からなり、書物などを編む意、とある。
眼と手先、つまり視点と手腕で新たに本を編むのが「編纂」と私は理解し、柴田の仕事はこれだ、と思った。そして、その編まれたものを「教科書みたい」と感じたのだ、と思い当たる。
『ゆく河の流れ〜』(1975)は、音による自分史であり、それを言葉で語ったのが自伝『わが音楽 わが人生』(95/岩波書店)であると柴田はその本の<序>で述べている。「自分の音楽的経歴の背後に、西洋の音楽史と、日本における洋楽受容史が透けて見えるような構造」、「この三つの相の相互連関が展望できるような叙述」という自伝のアイデアは、『ゆく河の流れ〜』ですでにやっている。この2つは同一アイデアの「メディアを異にする表現」である、と。
みっしりと目の詰んだ「知の巨人」の該博と、眼と手で編むその滑らかな技量には敬服するが、昭和史や民俗音楽、はたまた『方丈記』を音で編纂した柴田版に、私はいまひとつ感興がわかなかった。
そうして、私の中に、近代における「芸術」「創作」信仰があることを自覚する。
それはつまり、82年の「“私”はどこに?」「創作とは何か?」という問い、89年の「足跡と展望に見いだす意味」とは何か、という問いの裏にあるものだ、と自覚する。
自伝の18章<“追分節考”>の冒頭に、こんな文章がある。
「わたくしは1950年代以降の作品では、ヨーロッパのいわゆる“現代音楽”の様式に大筋で拠りながら、一作ごとにまったく新たな創意工夫をこらし、同類の曲の反復生産を厳に戒めてきた。“追分節考”においても、1950〜60年代の欧米の“前衛的”傾向にある作曲家と、音楽観や作曲様式を共有しながら、しかも、これまでにまったくなかった合唱音楽を実現したいと思い、依頼者の田中信昭さんの“日本民謡を専一に素材として”という希望をわたくしなりに受け止め、『音楽芸術』誌に連載していた日本民謡の分析の成果を作品に反映させながら、今度の新作を新たな合唱音楽の言語を収穫する受皿としたい、と考えていた。」
ここで「まったく新たな創意工夫」(創意)で「反復生産を厳に戒める」(生産)と言い、「新しさ」にこだわっているのを私は面白く思うし、この一文の中に柴田の作品(著作も含む)への姿勢、あり方が集約されている気がする。
秋山邦晴は『ゆく河の流れ〜』における様式や技法の引用について、こう言っている。
「(“引用されるもの”への志向という傾向)は、個人主義的な個性や個の論理から脱出して、時代や社会のなかに存在しつづけてきた過去の残滓と現状そのものへの再検討をするということ。その探求と変革の具体的な実践なのだ。その意味では“引用されるもの”の時代とは、文化の再検討の時代的な現象と言ってもいいかもしれない。」(76「音楽芸術」柴田南雄・特集:秋山邦晴『日本の作曲家たち』上巻/音楽之友社)
「編纂者」とした私の了解は、再び「“私”はどこに?」「創作とは何か?」という問いへと私を立ち戻らせ、私の中の近代の妄想たる芸術・創作信仰に揺さぶりをかける。
高橋悠治は記念演奏会のプログラムノートで、柴田の「無名性」を指摘しているが、さしあたり私はこれを「西欧的自我」と「東洋的無我」などで考えたいとは思わない。
さて、一番肝要なこと。編纂者の眼、“私”がどこにあるか。
柴田は『方丈記』を選択した理由を自伝で、昭和50年間に経験した戦火と700年前の京の惨禍とは同一と語り、「永遠の時の流れの中では昭和の50 年など一瞬の経過に過ぎず、さらに、人の営みも芸術の様式変遷も、あたかも自然界のサイクル現象のように、諸民族の諸文明の中で、時代を越えて同じようなパターンの反復現象としてくり返し生起していることを示唆したかった。」と述べている。
一方で、鴨長明を「天災、地変、公害など大いに野次馬精神を発揮して正確きわまるルポを残した」「実に面白い人物である。」とも(75/東京新聞「交響曲『ゆく河の流れは絶えずして』を終わって」)。
『方丈記』は、余命いくばくもない時を迎え、執着を捨てよという仏の教えに従って生きてきたものの、はたしてどうか?という自問に、心は答えることなく、舌を使って嫌々ながら南無阿弥陀仏と2、3回唱えてやめてしまった(「その時こゝろ更に答ふることなし。たゝかたはらに舌根をやとひて不請の念佛、両三返を申してやみぬ。」)で、筆を置いている。その終句の含む皮肉。自我。
だが柴田のテクストは「答ふることなし。」までで「淀みに浮かぶうたかたは〜〜ゆく河の流れは絶えずして〜」を再び巡らせて静かに終わる。
改めてCDを聴き直し、『方丈記』を読み返し、より広く、柴田の眼について考えたいと思う。
(2016/12/15)