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五線紙のパンセ|その2)ジムノペディが乱れる|川島素晴

その2)ジムノペディが乱れる 

text by川島素晴(Motoharu Kawashima) 

日活が「ロマンポルノ・リブート・プロジェクト」と称する企画を始めた。園子温を含む日本の名監督5名に白羽の矢を立て、1988年以来28年ぶりにロマンポルノ新作の制作を行おうというものだ。その第1弾が行定勲監督の《ジムノペディに乱れる》だときいて、観ておかずにはいられなかった。丁寧な心理描写と美しいアングル、中でも板尾創路の貫禄の演技とそれを引き出した監督の手腕は流石で、本家ロマンポルノを超えた名作の誕生と言って過言ではなかろう。映画監督である主人公が、様々な女性と性的関係を持とうとするたびに、事故で入院中の妻が自宅のアップライトピアノで奏でていたサティの《ジムノペディ第1番》が脳裏をよぎり、それが呪縛となって最後まで至らない。映画を見始めた当初は、この音楽を官能の象徴として(いかにもありがちなかたちで)扱っているのか、と思っていたが、実は、むしろ完遂されないエクスタシーの象徴であるあたり、この音楽の本質を見極めた選曲として監督の音楽的センスを再認識した。2016年はサティ生誕150年ということでクラシック音楽界では様々な企画が行われているが、行定監督がそのようなことを意識したかどうかは判らないものの、映画業界でもサティ・イヤーを象徴する「サティを再解釈する」作品に出会えたことは、音楽家側からも記憶に留めたい事実である。

私自身、サティ・イヤーに二つの作品を寄せている。一つは7月16日に飯森範親指揮いずみシンフォニエッタ大阪により初演された《もう一人のエリック》で、サティの名曲をメドレー仕立てで室内管弦楽作品に仕上げたものである。元来は紀尾井シンフォニエッタのメンバーが2001年に行った室内楽演奏会のためのアンコールピースだったものを、いずみ版として拡大したもので、詳しくは当日の動画解説原稿をご参照頂きたい。この、一見すると健康的で全うなメドレーの中にも、私なりにサティの精神(いたずら、皮肉、ユーモアetc.)を継承した意識はあるのだが、これから初演されるもう一つの作品は、ある意味でサティのアングラサイドからの継承が如実に反映した作品である。
アンサンブル室町により委嘱され12月25日に東京文化会館にて初演予定の《ギュムノパイディア/裸の若者たちによる祭典》〜6〜9名の西洋古楽器奏者、及び6〜9名の邦楽器奏者のための〜 については、こちらに長文で内容についての詳述を行っているのでまずはご一読願いたいが、かいつまんで記すならこのようになる。

サティの《3つのジムノペディ》は、古代ギリシアの祭典「ギュムノパイディア」が題材とされるが、全裸の青少年を集めて踊らせるこの儀式は、サティの音楽と異なり激しいものだったはずである。ここでは、サティの3曲を3拍子3小節3フレーズとして3つの基礎構造とし、それを3つの群がそれぞれ3倍、9倍の音価で合奏する。(この「3」へのこだわりは、クリスマス公演ということで「三位一体」に由来する。)
2〜3名の西洋古楽器でまず演奏され、次に2〜3名の邦楽器でそれを模倣すると、若干の誤差が生じる。その誤差を、西洋古楽器奏者が再び模倣し、さらに誤差が生じ・・・ということを繰り返していく。「室町」時代の後にバテレン追放から鎖国に至る日本史における、歌オラショの継承を想起させるこの変質過程こそが、本来あるべき「東西の融合」ではなかろうか。

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私が冒頭の映画を「観なければ」と思った理由をお察し頂けるのではないかと思う。そして前掲の詳述記事の最後にはこのように記した。

思えば、現代日本における「クリスマス」のあり方は、緩やかに異文化を受容する日本人の気質を端的に表すものであり、現在の排外主義の世界的台頭はそのような日本人気質とは相容れないものであることは明白である。この作品における、「緩やかな異文化の受容」による合奏世界は、禁教、鎖国という日本の悪しき歴史をまるで学ぼうとしない、現在の世の中に対するアイロニーであり、そのような精神こそが、エリック・サティへのオマージュなのである。

「もしも鎖国の中、西洋古楽器とひそかに合奏する集落があり、独自の音楽史を辿ったなら」という仮想は、世の中のマジョリティーが右傾化する中、早晩、今日の日本でも現実になり得るかもしれない世界である。
私は、これまで邦楽器のために作曲してきた作品では、題名や解説の中で、しばしば「遊び」という語を用いてきた。日本では元来「遊び」とは音楽演奏のことであったし、英語の「play」にせよ独語の「Spiel」にせよ、演奏は遊びと同じ語で表現されている。日本だけが何故か演奏を遊びから切り離してしまった。「遊び」には、インタープレイ、即ち「互いを聴きあう」というニュアンスも含まれていると感じる。雅楽のオーケストレーションが何故、中音域の持続を欠いたものなのか。それは、耳を澄ませば笙の合竹から仄かに聴き出せる差音の響きが、中音域の音を埋めてしまったら台無しになるからだと感じる。雅楽(=管絃の遊び)とは、互いの響きに耳を澄ませる意識が高かったからこそのアンサンブルであり、そのような意識を持った「遊び」の精神が、そこには宿っていたのである。(そして今日、そのような精神を言霊から放棄してしまった日本では、どこまで「演奏」に、そのような意識が息づいているだろうか。)今回、西洋古楽器であるセルパンに対する楽器として、ほら貝のパートを設定したのだが、このパートはもともとアンサンブル室町のメンバーにはない楽器だったので、私自身が演奏することになった。セルパンをどこまで模すことができるかは定かではないが、楽器の限界と可能性をお互いに聴き合い、存分に「遊び」たいと思う。

一方で、教育現場にいると、現代社会に於いてはむしろ、国籍など無効なものだと強く感じる瞬間が多数ある。その一例と言えるのが、ゲーム音楽の影響である。私の所属する国立音楽大学では世界の協定校からの交換留学生を受け入れているが、2014年以後、私は4名のタイ人、1名のアメリカ人、1名のドイツ人を担当してきた。そのうちの何名かが作曲する音に、ある一定のくせ(極めて限定された声部数で書く割には古典的な対位法とはかけ離れた音感で支配されている、3度のハモりよりも4度や5度を多用する、奇妙な転調や急激な場面転換が常時生じるetc.)があったので背景を調べてみると、案の定、1980年代のゲーム音楽の影響があった。東京音楽大学での作曲(芸術音楽)1年次の演奏審査では、ピアノ作品の自作自演が課せられる。先日行われた審査会で演奏した内の1名の作品に、同様の傾向を認めたので質問すると、やはり80年代ゲーム音楽の影響を隠さなかった。
日本のゲームは世界に流通し、当時のゲームも今もってプレイ動画等で再共有されている。この「遊び」は、前述の「遊び」の精神とは遠いかもしれないが、このことが現代人の音感の背景に強く影響しているとしたら、「遊び」は再び「音楽」とつながり合い、何らかの国際標準を形成していると言えるのかもしれない。その感覚を是とみるか否かはともかくとして、このように、文化は既に国境を超えて人々の感覚レベルで共有し合うものとなっている。
クラシック音楽の現場にいると、そんなことは言わずもがなであると思う反面、遺伝子レベルでは超えられない壁を感じることも多々ある。毎週のようにグレゴリオ聖歌に親しんで育った人物と、その存在を成人した頃にようやく知ることとなる人物とでは、基本的音感レベルで大きな隔たりが生じてしまうのは仕方ないことだと痛感する。音階を平均律の鍵盤で教育している時点で、優秀な音感を養いつつ、様々な大切なことを失っている。そのような差異を知り、「遊び」の精神で、且つ真摯に耳を傾けることがなければ、この溝は埋まらない。「ゲーム音楽」で育つ感覚と「グレゴリオ聖歌」で育つ感覚、どちらが是であるという話ではなく、「歌オラショ」が生月島の人々にとって真実であったように、そのどちらも真実であるという前提を持つことから、全ては始まる。

%e3%81%8b%e3%82%8f%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%a1%e3%82%89%e3%81%972-212x300さて、私の《ギュムノパイディア》は、果たしてどのような真実たり得るか。是非お立ち合い頂きたい。

★公演情報
2016年12月25日(日)16時 東京文化会館 小ホール
「アンサンブル室町 ~MERRY CHRISTMAS MR. ERIK SATIE!」
川島素晴《ギュムノパイディア/裸の若者たちによる祭典》
6〜9名の西洋古楽器奏者、6〜9名の邦楽器奏者のための
http://www.ensemblemuromachi.or.jp/satie

2017年2月11日(土・祝)16時 大阪 いずみホール
「いずみシンフォニエッタ大阪 第38回定期演奏会 ~満喫!楽聖ベートーヴェン」
シュネーベル:ベートーヴェン・シンフォニー(1985)
ベートーヴェン:大フーガ 変ロ長調 op.133 【弦楽合奏版・川島素晴編曲】
西村 朗:ベートーヴェンの8つの交響曲による小交響曲(2007)
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第5番 op.73 《皇帝》 【いずみシンフォニエッタ大阪版・川島素晴編曲】
http://www.izumihall.jp/schedule/concert.html?cid=1138
(川島素晴:いずみシンフォニエッタ大阪プログラムアドバイザー)

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川島素晴(Motoharu Kawashima)
1972年東京生れ。東京芸術大学及び同大学院修了。1992年秋吉台国際作曲賞、1996年ダルムシュタット・クラーニヒシュタイン音楽賞、1997年芥川作曲賞、2009年中島健蔵音楽賞、等を受賞。1999年ハノーファービエンナーレ、2006年ニューヨーク「Music From Japan」等、作品は国内外で演奏されている。1994年以来「そもそも音楽とは『音』の連接である前に『演奏行為』の連接である」との観点から「演じる音楽(Action Music)」を基本コンセプトとして作曲活動を展開。日本作曲家協議会理事。国立音楽大学准教授、東京音楽大学及び尚美学園大学講師。2016年9月、テレビ朝日放送「タモリ倶楽部」で現代音楽の特集が行われ、解説者として登壇。タモリとシュネーベル作品で共演した。
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