ユリア・フィッシャー ヴァイオリン・リサイタル|谷口昭弘
2016年10月15日 東京オペラシティ コンサートホール
Reviewed by 谷口昭弘(Akihiro Taniguchi)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
ユリア・フィッシャー(ヴァイオリン)
マルティン・ヘルムヒェン(ピアノ)
<曲目>
ドヴォルザーク:ソナチネ ト長調 Op. 100
シューベルト:ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ第3番ト短調 D408
(休憩)
シューベルト:ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ第1番ニ長調 D384
ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第3番ニ短調 Op. 108
(アンコール)
ブラームス:《F. A. E ソナタ》よりスケルツォ
ドヴォルザークの「ソナチネ」第1楽章は、ファンファーレ風の冒頭は力強いが、ピアノが主導する部分では、フィッシャー自身が耳をそばだたせるようにピアノとのバランスを取る。ホ短調になる部分の柔らかな弱音が印象に残った。独特のアクセントや跳躍を伴うドヴォルザークらしい第2楽章では、作品そのものが持つ野暮ったさを、そのまま魅力として奏でていた。そして第1楽章同様、ピアノのヘルムヒェンの音も、その一つ一つの粒が際立つほど聴こえてくる。そして終結部の消え入るようなヴァイオリンの弱音の美しさにも、豊かな余韻があった。
村の踊りを感じさせる躍動感溢れるスケルツォに、ボヘミア賛歌にも聴こえる第4楽章、どちらも民俗的野趣と、それを称揚した芸術作品としての魅力を、ぞれぞれ相殺することなく聴かせる卓越したセンスに聞き入った。
当日追加演目として発表されたシューベルトの「ソナチネ第3番」は、曲の構成要素こそシンプルだが、立体的に、シンフォニックに聴かせる難しさを併せ持つ。ドヴォルザーク作品同様、舞台上の二人が音楽的に果たす役割も単純に旋律+伴奏ではなく、デュエットになる箇所もある。フィッシャーもヘルムヒェンも、そういった曲のテクスチャーの変化に機敏に反応し、細かなダイナミクスの変化にも素早く対応する。端正なフレーズと和声が魅力の第2楽章、トリオ部でたっぷりとした歌が聴けた第3楽章につづき、第4楽章では、ロンド形式の中で対比される楽想をそれぞれが豊かにアピールしつつ、繰り返される旋律を訥々と聴かせつつ、シューベルトの純朴な音楽の楽しみを飾り気なく、しかし堂々と主張していた。
後半は同じくシューベルトの「ソナチネ第1番」。澄み切った音色と自然に流れるリズムで第1楽章を整然と聴かせた後、第2楽章では小さなフレーズの一つ一つを大切にするヘルムヒェンのピアノに導かれ、フィッシャーのか細い線として始まった旋律が次第に影のような存在感となり、やがてはみずみずしい力を蓄えていった。シューベルトの安らぎを与える第3楽章では、ロンドで対比される楽想にほんのりとした緊張感を載せつつ、最後は決然と曲を締めくくった。
神秘に満ちたオープニングで始まったブラームスの「第3ソナタ」は、音楽の親密さがシューベルトとは全く違う。隙を見せない展開の中で、フィッシャーとヘルムヒェンによる一体感、融合の美が聴き手を強く引き込んでいく。どんな言葉を考えても陳腐になってしまう饒舌な語り口による第2楽章は、フィッシャーの朗々とした歌が内省的、あるいは瞑想的なブラームスの世界へと聴衆を誘い、最後の音が終わったあとは、ただただ深い溜息がでるばかりだった。この公演で一番幸せを感じたひとときと言ってもいい。
ラプソディックな赴きを残しつつ一抹の寂しさや陰りを示した第3楽章に続き、第4楽章ではブラームスの音楽に潜む内的な力に抗するが如く、外に出ようと切実に攻める二人の表現欲求が感じられ、とにかく圧巻のフィナーレだった。
アンコール曲も含め、ブラームスの余韻が後を引いた演奏会だった。今度はいつ、彼女の演奏を聴けるのだろう。