東京都交響楽団第813回、第814回、第815回定期演奏会 (インバル80歳記念/都響デビュー25周年記念)|藤原聡 

%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%90%e3%83%ab%ef%bc%91♪東京都交響楽団 第813回定期演奏会Cシリーズ(インバル80歳記念/都響デビュー25周年記念) 

2016年9月10日 東京芸術劇場
Reviewed by 藤原聡( Satoshi Fujiwara)
Photos by Rikimaru Hotta/写真提供:東京都交響楽団

<演奏>
指揮:エリアフ・インバル
チェロ:ターニャ・テツラフ
コンサートマスター:矢部達哉

<曲目>
エルガー:チェロ協奏曲 ホ短調
(ソリストのアンコール)
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第3番 ハ長調 BWV1009~サラバンド
シューベルト:交響曲第8番 ハ長調 D944『ザ・グレート』

%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%83%90%e3%83%ab%ef%bc%92%e3%80%81%ef%bc%93♪東京都交響楽団 第814回定期演奏会Aシリーズ(インバル80歳記念/都響デビュー25周年記念)

2016 年9月15日 東京文化会館

<演奏>
指揮:エリアフ・インバル
ピアノ:アンナ・ヴィニツカヤ
コンサートマスター:矢部達哉

<曲目>
グリンカ:歌劇『ルスランとリュドミラ』序曲
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第2番 ト短調 op.16
(ソリストのアンコール)
チャイコフスキー:『四季』~4月
バルトーク:管弦楽のための協奏曲 Sz.116

♪東京都交響楽団 第815回 定期演奏会Bシリーズ(インバル80歳記念/都響デビュー25周年記念)

2016年9月20日サントリーホール

<演奏>
指揮:エリアフ・インバル
ヴァイオリン:オーギュスタン・デュメイ
コンサートマスター:山本友重

<曲目>
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第3番 ト長調 K.216
ショスタコーヴィチ:交響曲第8番 ハ短調 op.65

1991年9月6日と7日にエリアフ・インバルが都響の指揮台に立ってから今年2016年で25年、既に四半世紀が経過した(余談だが、記憶が正しければ筆者が彼らの実演に初めて触れたのは1994年4月25日に東京芸術劇場で行なわれたマーラーの交響曲第3番だった筈)。そして1936年生まれのこの指揮者は本年80歳。今回のインバルの来演にはこの2つを記念する意味合いがある。それぞれ5日のインターバルを設けて3回行なわれたコンサートのうち、本稿では20日をメインに記し(この日の印象が断然強烈であったためだ)、他の2日も簡単に触れよう。

軽やかに舞うようにしてステージに登場したデュメイ、長身痩躯だけに舞台姿は実に映えるが、演奏は非常にユニークだ。ピリオドであるとかモダンであるとか、そういうものとは全く関係のないところで自在に遊んでいるといった感じで面白い。フレーズの入りはしばしば微妙なテヌートを掛けてしなを作り、高音では媚を含んだような艶かしい―しかし品格を失うことはない―音を振り撒く。低音は太く、時には故意に荒っぽい音も出す。当夜の演奏では、第2楽章の伸びやかな歌が大変に美しく、随一の聴き物。この名手も60代後半を迎え、技巧の衰えを懸念しながら客席に着いた筆者であったが、幸いそれは杞憂に終わったようだ。インバルの指揮はモーツァルトであろうが造形のどっしりとした厳しいものだが、一見水と油のこの両者の呼吸はなぜか上手く合っている。聞けば、デュメイが15歳の時にインバルは初めて彼に会い、それ以来しばしば共演しているようである。そういうことか(は分からないが)。またこのデュメイ、演奏していない間には何とも落ち着かないような風情でオケを向いたり腕を動かしたりと、興に乗っているのだろうが、こう言っては何だがいかにもやんちゃっぽい雰囲気なのだ。それは正確に演奏内容と合致している。

そして後半はインバルがマーラーと並んで得意とするショスタコーヴィチの交響曲の中から、第8番。これは今回の3回のインバル都響登壇の中でも最も優れた演奏であり、かつ筆者が相当数接して来た今までの演奏の中でも上位に食い込むほどのものであったと断言できる。インバルの常として、曲の開始はことさらに構えずごく自然に演奏を開始するのだが、ここでも同様。低弦のテンポに芝居かかった身振りはなく、いかにも悲劇でござい、というような重々しい誇張がない。曲頭しばらくしてからか細く歌い出されるヴァイオリンの主題も、凍りつくような静けさと言うよりはもっと強固な意志を感じさせる骨太なもの。楽譜外の物語的な要素をことさらに意識していない演奏であり、これはインバルの演奏に概ね共通する要素だ。筋金入りのテクスト主義者。曲が進むに連れてその演奏は熾烈の度を増し、中間部のアレグロ部分への突入も他の指揮者がよくやるようにテンポを緩めてタメを作ったりはせずに直裁に突っ込んで行く。そして楽章の音響的なクライマックスである冒頭主題の暴力的な回帰部分では呵責ないティンパニとバスドラムのトレモロ強奏は耳をつんざくが如き様相、ここでもほとんどインテンポを貫き、その厳しさは尋常ではない。続くイングリッシュホルンの長いソロによる再現部では、それを支える弦楽器群のトレモロにも神経質さがなく、あくまで剛直である。

この長大な第1楽章が終わってすぐさまアタッカで第2楽章に突入したのにはたまげたが、さらに仰天したことにテンポが猛烈に速い。その中、中間部で入れ替わり立ち代り現れる木管群のソロの見事さにはさすが都響と感嘆。特にピッコロはこのテンポでよく吹き切ったものと思う。これだけ速いテンポで、しかも都響が限りなく正確な演奏を行なうと、正確/明晰であるが故の狂気が聴き手の脳髄に直接刺さってくるかのような感触がある。

しかし驚いてはいけない。さすがにインターバルが置かれた後に開始された第3楽章。ここでもテンポは相当な速さだが、サントリーホールのLB席で冒頭ヴィオラパートを正面から見て仰天。ボウイングが音符毎の返しではなく、全てダウンボウ。こうやって弾いた例を寡聞にして知らない。ここはスコアを見ればmarcatissimo(音を非常に際立たせてはっきりと)の記載のみあり、具体的な運弓の指定はない。現実的には演奏の困難さから返しで弾かせているのだろうが、インバルはありそうでなかったダウンボウでやってしまった(これがヴァイオリンに受け継がれる際にはさすがに返しで弾かせていたが)。当然発音はより明確になるが、視覚的効果も絶大だ。都響のヴィオラセクションが前のめりになりながら猛烈な速さで右手を上下させているシーンそれ自体の異常性はけだし見物であった。

全く芝居気なしに激烈に突入した第4楽章では、低弦のパッサカリア主題をやや強めに弾かせることによって楽曲の構造に立体感を持たせることに成功していた。この楽章はダレがちになるので、いささか速めのテンポも相まって見事な解決法である。ショスタコーヴィチにおけるパッサカリアは「起きてしまった悲劇に対する省察」と形容されることがあるが、ここでのインバルは、精神の暗部に沈滞していくというよりはもっと前向きな積極性を感じさせる点で異色と思う。

ショスタコーヴィチがファゴットソロを使う場合にはどうやらアイロニカルな何物かが潜んでいる気がするのだが、第5楽章もそのファゴットソロで開始される。しかしことさらに皮肉めいたニュアンスは付加されない。「パロディは真面目にやらないとパロディにはならない」。ここでも基本的に引き締まったテンポで演奏は進められていくが、次第に混迷の度を増して行きあの悲劇的な第1楽章クライマックスの咆哮が再現されるまでの力感の変化が非常に上手い。コーダは十分に余情に満ちながら、ここでも過剰な意味付けは排除されているように聴く。

ショスタコーヴィチの交響曲第8番は、インバルのようないい意味での「ドライな」解釈で聴くと、その狂騒性と破格さが実に良く分かる。これ以上「皮膚に直接刺さってくる」かの様な第8の演奏を今後実演で聴ける気がしない。インバル、齢80にして依然喧嘩上等のスタンス、誠に天晴れ。

さて、他公演についても簡単に。

10日公演での『ザ・グレート』は16型の弦に木管は倍管という巨大な編成を取り、単に音量だけをとってみれば相当にマッシヴな響きも随所に聴かれたが、それは単純な後期ロマン派的に肥大した響きへの指向性ゆえではなく、現代のコンサートホールのキャパシティに合わせるべく拡大した編成を取っているということであろう。また、インバルが巧みなのは、その中での音響バランスのコントロールが精妙であるために決してボッテリとした響きに陥らない点だ。ここを聴き逃してしまうと「シューベルトにしては厚化粧」という単純な見立てに落ち着いてしまう。インバル寄りの演奏なので好みは分かれようが、恐ろしくハイレヴェルな名演であることに間違いはない。前半のターニャ・テツラフのチェロによるエルガーは非常に滋味のある抑制された表現が高貴であり、決して感情を露にしないからこその憂愁が心に沁みる。その意味でいかにもエルガー的である。

15日のメインはバルトークの管弦楽のための協奏曲。今回のインバルの3回のコンサートにおいて暗譜で振ったのはこの曲のみ、よほど手の内に入った曲ということだろう。全曲アタッカで通すというのも予想外。ここでインバルはいわゆる民族的な色付けとは無縁の非常に厳しい、ある意味でニュートラルな解釈を取る(ということはいつものインバル流儀だ)。個人的にこの曲の核と考えている第3楽章の「悲歌」においてはより内面的で有機的な演奏を求めたいところだが、それ以外の楽章は完璧だ。磐石の弦楽器群(ことに低弦の強靭さには目を見張る)をベースに、各管楽器群が音量と音色のコントラストも豊かに実に表現的な演奏をするのには驚く。管弦楽のための「協奏曲」という楽曲名をこれほどまでに理解されてくれる演奏も稀ではないか。順位を付けることにさして意味があるとも思えないが、それでも敢えて記せば、このバルトークは今回の3回のコンサート中ショスタコーヴィチに次ぐ名演奏と思う。前半、ヴィニツカヤのプロコフィエフは女性ピアニストとは思えぬ強靭な打鍵と明晰な音像がいかにもプロコフィエフに相応しく、カデンツァの集中と没入も凄まじい。そして、最初のfからその音の分厚さと弦楽合奏の緊密さに軽く仰け反り、そしてまるで馬鹿でかい猛獣がその図体にも関わらず機敏極まりない様子で動きまわる様を思わせたのは当夜第1曲目の『ルスランとリュドミラ』序曲。実にインバル的であり、これほど存在感のある同曲演奏は多分他では聴けないだろう。チェロによる第2主題での強弱の対比が非常に印象的。

曲目も演奏もとにかくヘヴィ級の内容であり(それはインバルの常だが)、ほとんどの聴衆は終演後心地良い疲労感に包まれたであろう今回の3回のコンサート。次回の「都響インバル祭」はいつになるのだろうか。もう早、待ち遠しいのであった。

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