いまいけぷろじぇくと第4回パフォーマンス・デュオ公演|丘山万里子

%e3%83%91%e3%83%95%e3%82%a9%e3%83%bc%e3%83%9e%e3%83%b3%e3%82%b9いまいけぷろじぇくと(今村俊博×池田萠)第4回パフォーマンス・デュオ公演
特別編《続・「祝祭」から「内省」へ》

2016年9月2日 杉並公会堂小ホール
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
写真提供:いまいけぷろじぇくと

<出演>
いまいけぷろじぇくと(今村俊博×池田萠)

<プログラム>
池田萠:ピアニストは歌うことが出来るし、しゃべることも動くことも出来る(2016/初演)
川島素晴: HACTION MUSIC Ⅱ(2015/第2回公演委嘱作品再演)
かしやましげみつ:声がきこえる(2016/委嘱作品初演)
今村俊博:数える人Ⅱ(2016/初演)
美術・衣装監修:添田朱音
〜クロストーク/かしやましげみつ、川島素晴、三輪眞弘〜
三輪眞弘:算道演算 二人だけのまたりさま/畏祠多宮の御(三)拍子(いしたみやのみびょうし)(2016/委嘱作品初演)
算道指南:山本一彰

ちょっと気になる公演があったので、行ってみた。パフォーマンス・デュオとあり、川島素晴と三輪眞弘の作品が並んでいたし。

心に残った作品がひとつ。
かしやましげみつ、という人の『声がきこえる』。東海圏で活躍する新鋭の劇作家、演出家だそうで演劇ユニット<孤独部>の設立者。
<いまいけぷろじぇくと>の二人、今村俊博と池田萠が出てきて、今村はステージにセットされた台上に、池田はその脇下に。彼女が小声で言う文章(言葉は聞き取れない)を、彼がそのまま聴衆に向かってリピートするという、それだけのこと。まあ、プロンプターと役者のようなものだ。でも、最初の一行、
「みなさん、こんばんは。わたしは今、あなたに、話しかけて、います。」
に続いて、
「わたしの声が、あなたに、きこえることは、ありません。」
と来た時、私はドキンとした。
え、きこえているよ。と、へえ、なるほどね。とが同時に私の中で交差したのだ。
きこえないのは、話者が地球の自転、秒速約388 mの速度で移動しているからで、だから
「わたしの声が、あなたに、届くことは、ありません。」
きこえるとしたら、それはあなたも自転の速度で移動しているからで、うんぬんかんぬん。
そうして、「おーい」と叫ぶ。
それから、わたしとあなたは愛知と東京でふだん暮らしていて、その直線距離は約260キロ、でも今、この瞬間は声がきこえる距離にいる、とかなんとか。セリフは続く。
やがて、女は去り、男は、「おーい また会おうね おーい また会おうね」と繰り返しつつ、袖に消え、消えたあとも、このフレーズは、多分、1回はきこえてきた。
この、消えゆく「また会おうね」に至って、私はなんとも言えず胸がジンとした。
なんて、たくさんのものが、ここにはあったろう。それに、何よりあったかい。
時、空間、場、今、そこに生きる人と人との<あいだ><はざま><ずれ>(女・男・観客)、<つたわる><つたわらない>、<きこえる><きこえない>、そして<言葉>という伝達手段に潜む本源的な相互理解不可能性、危うさ、幻想、そういうことを全部包み込んで、地べたに萌える若草のような低い視線と、そこから見上げる宙(そら)の巨きさと、易しい言葉、優しいけれどしっかりした声で、最後に「また会おうね」をこだまさせる、その仕掛けのシンプルな豊かさ、温かい感性に、いいなあ、と素直に思った。今夜はこれで十分。%e3%81%8b%e3%81%97%e3%82%84%e3%81%be

他の作品は、以下の通り。

池田のは、今村と池田が出てきて、向き合い、おもちゃのピアノ(トイピアノ)を弾きながら(メトロノームを真ん中にセット)数を数えたり、音階を歌ったり。%e6%b1%a0%e7%94%b0

川島は、咳、ため息、いびき、あくびといった行為(アクション)を二人がやって、最後にくしゃみをこらえ、手で口を覆って、今にも・・・というところで暗転、同時に客席後方にいた作曲者が「ハアクション!!」とやる、いかにも川島、な作品。%e5%b7%9d%e5%b3%b6

今村は、二人がトレパン姿で出てきてゴム風船を机に積み上げ、それを、計られた時間内に次々膨らませ、最後に出来上がった風船にマジックで数を書き、数える、というもの。%e4%bb%8a%e6%9d%91

最後の三輪は、着物の二人が座って向き合い、碁盤みたいのに駒を置いていく感じ(トークで説明されてもよくわからなかったが、これが算道演算らしい)。で、何かがどうかなると「またり」と言って、相手の肩を鈴や掛け(カスタネットの様な物)で叩く。それを延々、というか、つまり、ずっと二人の手元を見ていないと、「またり」のタイミングがわからないわけで(見ているとわかるんだろうか)、椅子を運んで近くに座り、二人の手元を見るように言われたが、5人10人の客でなし、人の肩越しに見ようと努力はしたものの(作曲家はよく見える中央に座していた)、次第に苦痛となり、多分15分くらい(と思えた)は見ていて、その間「またり」が4回で、ついに私は退出させていただいた(2002年作品『またりさま』を私は知らず、前知識もなし。なお、私の前に一人退出者がいた)。
この種の<疎外>って、「また会おうね」の対極にあるんじゃないか。とだけ、言っておく。後日見つけた「算道演算」参考資料は以下。
http://data.jssa.info/paper/2015v07n03/3.Yamamoto.pdf%e4%b8%89%e8%bc%aa

コンサート・タイトルは《続・「祝祭」から「内省」へ》となっていたけど、プログラムに本人たちの作品解説も載っていたけど(三輪のは1ページを占め「またりさま」の由来などあったが、読んでも関係ない、と言われ、まあ、そうだった)、理論やコンセプトはどうでも、要は作品。そこで何が起き、何を受け止められたか、で、少なくとも私はかしやま作品との出会いを喜べたから、それでいい。

<いまいけ>の二人のパフォーマンス、ポケモンgoのバーチャル世界に遊ぶ今時、身体性を問うという意味で、まさに<今、行け>なのかも。と、フッサールやM・ポンティの身体論を想起しつつ考えた。