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Pick Up(16/10/15)|映画「シン・ゴジラ」と「君の名は。」|齋藤俊夫

映画「シン・ゴジラ」と「君の名は。」

text by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

映画「シン・ゴジラ」
配給:東宝
総監督・脚本:庵野秀明
監督・特技監督:樋口真嗣
音楽:鷺巣詩郎
撮影:山田康介
出演:長谷川博己、竹野内豊、石原さとみ、高良健吾、松尾諭、市川実日子、余貴美子、國村隼、平泉成、柄本明、大杉漣、他

「君の名は。」
配給:東宝
原作・監督・脚本・絵コンテ・編集:新海誠
アニメ制作:コミックス・ウェーブ・フィルム
音楽:RADWIMPS
キャラクターデザイン:田中将賀、安藤雅司
作画監督:安藤雅司
美術監督:丹治匠、馬島亮子、渡邉丞
音響監督:山田陽
声の出演:神木隆之介、上白石萌音、長澤まさみ、市原悦子、成田凌、悠木碧、島崎信長、石川界人、谷花音、てらそまさき、大原さやか、井上和彦、茶風林、かとう有花、花澤香菜、他

今年の夏から秋にかけて大ヒットした邦画2つを批評する。

まずは国民的、あるいは世界的な特撮怪獣映画の母国での復権を賭けた『シン・ゴジラ』である。

なによりも特筆すべきは上映開始まもなくの時点で始まり、映画の尺の半分以上をしめる、ゴジラによる東京大破壊の特撮描写である。特撮と言っても旧来のようなミニチュアセットと着ぐるみの怪獣による特撮ではなく、ベースとなっているのはCGなのだが、しかしその生っぽさはまさに日本の伝統芸とも言うべき、1954年のあの元祖『ゴジラ』の系譜に正統に連なるものである。自分が住んでいる街がゴジラによって蹂躙される様がリアルに描写されるのにたまらなく興奮する。

しかしこの興奮を改めて顧みてみると、実に不可解な反応である。何故我々は自分の街が壊されることにこれほどの快感を見出すのだろうか?そこには自らの内にある、自らの死への願望が反映されている。そして、自殺と同時に、日常世界に対する、この自殺と等価な悪意の顕在化への願望もまた反映されている。

我々は常にどこかで「死にたい」と思っているのだ。そして、その「死にたい」を反転させた「殺したい」という願望をも同時に持っているのだ。この無意識下にある暗い願望に対するフロイト的な充足の夢を映し出したのがこの『シン・ゴジラ』の東京蹂躙シーンなのだ。我々は自殺と他殺を同時に銀幕上に見ているのである。ゴジラは願望充足のための我々の分身である。東京を蹂躙しているゴジラも、ゴジラによって蹂躙されている東京の人々も、どちらもそれは観客自身に他ならないのである。

そして本作品と1954年の元祖『ゴジラ』とに大きな違いがあることに気づく。1954年作ではゴジラが東京を蹂躙していった後の惨たらしい犠牲者たちを映したシーンや、鎮魂の歌を合唱するシーンが存在するのだが、本作品ではそのようなシーンは存在しない。本作品は悲劇を悲劇的に描写することを避け、1954年作と比べて非常にドライな感覚でゴジラの大破壊を捉えているのである。

このドライな感覚は登場人物達の行動にもよく現れている。1954年作でゴジラを倒すことができる兵器を開発した博士は、ゴジラ蹂躙の後の鎮魂の歌を聴いてその兵器を使うことを決心し、そしてゴジラと超兵器と共に自らも死を選ぶのだが、この博士のようなウェットな人物は本作品では登場しない。主役である長谷川博己以下「 巨大不明生物特設災害対策本部」の面々はゴジラとその災厄に対して徹底的に冷徹でドライな態度で向き合うのだ。それはこの映画の中に観客が感情移入をするのを拒んでいるかのように思える。

感情移入の拒絶の結果として、本作品のゴジラは1954年作のゴジラと大きく違った様相を呈することとなる。1954年作のゴジラは核実験という人間の愚行によって怪獣にされた悲劇的な存在として登場したが、本作品ではゴジラに対してそのような悲劇を想起するのは難しい。1954年作のゴジラが人災的存在であるのに対して、本作品のゴジラは天災的存在なのである。

天災と言われてまず想起されるのは東日本大震災である。あの一大災害に対して無力・無能だった我々日本人と対照的な有能な日本人を描くことによって、本作品はその復讐を果たそうとしているのである。しかし、ゴジラの東京蹂躙をこそ望む観客にとって、この復讐は後ろめたいものならざるを得ない。内なる自殺・他殺願望充足の夢としての本作品は、同時に東日本大震災の反復として我々の中でアンビバレントな存在にならざるを得ないのである。このことこそ正に本作品が「ただの怪獣映画ではない」と言い得る所以なのである。

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日本にアニメーション作品もアニメーション監督も多数いるが、その世界観と視覚によって独自の地位を占めている新海誠の新作は、今回も彼ならではの作品ではあるが、しかしこれまでのように一部の人間にだけマニアックに(あるときはやや冷笑的に)受け入れられる作品ではなく、広く一般に知れ渡りご存知の通り今年の夏から大ヒットの記録を伸ばし続けている。マニア向けでなく一般に向けて、本作品において新海誠は何を捨て何を得たのか、その秘密に迫りたい。

だがしかし、まず第一に言わねばならないことは、「新海誠は根本において全く変わってなどいない」ということである。

「自分には誰か特別な人がいてずっとその人を探し続けている」という、社会のごく一部の人間の中のある特定の年齢だけにある(はずの)浪漫的な幻想、それを視覚的な美しさを伴って銀幕の中に昇華・再現してしまう、そんな新海ワールドは2004年の『雲のむこう、約束の場所』から『秒速5センチメートル』(2007年)『言の葉の庭』(2013年)を経た本作でも何ら変わっていない。

本作品の中心に位置するのは冒頭のヒロインのモノローグ、そして映画最後の一連のシークエンス、この2つだけである。「自分には誰か特別な人がいてずっとその人を探し続けている」ということをぼんやりと感じつつ独り生活をしているヒロインと主人公がいて、その運命の2人が再会する、ただそのことだけが新海が描きたかったものなのである。そしてこの中心モチーフ以外の諸々のエピソードとギミックは中心を成り立たせるための観客への根回しに過ぎない。

だが、この根回しとしての映像的・物語的ギミックとして大量投入された一品一品が今までの作品よりずっと洗練され、一般に受け入れられやすくなった、今回の大ヒットはその事をただ立証しているだけである。空を一匹の鳥がゆっくりと旋回している、夕焼けが2人の姿を逆光で照らしている、彗星が夜空に弧を描いている、そのような映像的ギミックは新海がメジャーデビューした2002年の『ほしのこえ』から一貫して用いられてきたものであり、また物語的には今回の民話風男女入れ替わり譚は『雲のむこう、約束の場所』におけるSF的ギミックの代替物として選ばれたものと考えられる。SFでは客がついてこられないが民話ならついてこられた、ただそれだけのことである。

なんのことはない。結局新海誠は何も変わっていないのである。ずっと女々しい野郎どもの妄想を延々グダグダと引きずり続けている、そんな新海誠が、筆者にはたまらなく愛おしく感じるのである。今回のまさかのメジャー大ヒットによってその女々しさを捨てるのではなく、やがて今回以上に無駄に美しい幻影で彩られた作品が銀幕に映えるのを望む。