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アレクサンダー・ガヴリリュク ピアノ・リサイタル|藤原聡

ガヴリリュクアレクサンダー・ガヴリリュク ピアノ・リサイタル

2016年7月14日 東京オペラシティ コンサートホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<曲目>
シューベルト:ピアノ・ソナタ第13番 イ長調 D664
ショパン:幻想曲 ヘ短調 Op.49
同:夜想曲第8番 変ニ長調 Op.27-2
同:ポロネーズ第6番 変イ長調『英雄』Op.53
ムソルグスキー:組曲『展覧会の絵』

(アンコール)
シューマン:子供の情景 第1番「見知らぬ国と人びとについて」
フィリペンコ:トッカータ
シューマン:子供の情景 第7番「トロイメライ」
バラキレフ:イスラメイ
ラフマニノフ:楽興の時 Op.16 -3
メンデルスゾーン(リスト/ホロヴィッツ編):結婚行進曲

初めてガヴリリュクのリサイタルを聴いてまず思ったのは、磐石かつ鉄壁の技巧もさることながら、様々な時代、様式の曲をそれぞれ実に見事に弾き分けるその知性である。いわゆる「ロシアのヴィルトゥオーゾ」というイメージを持って筆者が臨んだ本リサイタル、1曲目のシューベルトでは、軽妙で明るい音色のタッチを軸にした、もって回ったところのない直裁な表現が非常に新鮮に感じられる。ナイーヴ過ぎる表現でもなければ、大掴みな表現でもない。いい意味での中庸。大げさに言えば、リヒテルのような沈滞する演奏を想像していたところ全く良い意味で裏切られた感。

ところが、次のショパンに行くと若干様相が変わる。タッチには深さが表れ、スケールが途端に大きくなり、趣味の良いテンポ・ルバートが適宜駆使される。幻想曲では左手のバスを強めに弾いて立体感を表出。全体に迫力はあるが、よくロシアのピアニストに見受けられるような豪快な力業的側面が全くなく、夢見るような柔らかさも兼備している。夜想曲第8番での表情の移ろいとコーダのピアニッシモは絶品であるし、『英雄ポロネーズ』でも非常に抑制された高貴な表情で弾き進められる。中間部のテンポの速さには若干驚かされたが、主部の再現~コーダに至ってその力感を開放、聴き手に十分な心理的カタルシスを与えて見事に終結。このように、ただ「弾ける」だけでなく、楽曲の構成、聴き手の心理的な側面にまで神経を使っているように感じられるのだ。

そして休憩後の『展覧会の絵』に至って、またまた演奏に変化が現れる。<キエフの大門>の豪壮さが尋常ではない。しかも、豪壮なだけでなく音が混濁しない。常に余裕すらある。全曲を通して、オケ版を聴き慣れた耳からすると、ともすると感じられるピアノ版の物足りなさが全くないのだが、これは、ダイナミズムの点からもそう言えるし、別の側面から言えば、オケ版―ラヴェル版が無論1番分かりやすい―がどうしてもそのカラフルさやオーケストレーションの効果に興味が行ってしまうのに対し(それ自体は当然悪いことではない)、ピアノ版は逆にモノクロームであるがゆえに聴き手に心理的な/時間的な推移の意識を感じさせるのだが(プロムナードが、現れる都度「展覧会の観覧者」の心理状況を表すように明るくなったり寂しくなったりすることを思い出そう)、ガヴリリュクは、<キエフの大門>に至るまでの弾き分けも抜群であるから内面的なピアノ版の利点も生かし、かつ桁外れな技巧でオケ版に匹敵するほどの迫力をも表出してしまう、要は両者の「いいとこ取り」を実現してしまっている。筆者は『展覧会の絵』という曲は特に好きでもないのだが、今後これを越える実演に廻り会うことができるだろうか、と考えさせるほどのものだったのは間違いあるまい。

もうここで会場中は興奮の坩堝だが、聴衆のとどまることのない喝采に答え、ガヴリリュクはアンコールを6曲も(!)弾いた(もう終わりですよ感を出しながらも、喝采が続くので「もう1曲ね」でどんどん弾いてしまう。多分いい人なのだろう)。その6曲は本稿冒頭に掲載したが、インティメイトなシューマンと爆裂曲を交互に繰り出す策士である(どうです、いろいろ弾き分けられるのですよ!)。中でもバラキレフの『イスラメイ』とメンデルスゾーン(リスト/ホロヴィッツ編)の『結婚行進曲』というゲテモノが口あんぐりの猛烈爆演だ。最後には多数のスタンディング・オヴェイション=起立しての拍手喝采すら現れ、稀に見るような光景となる。

どうやらガヴリリュクのリサイタルには熱心な「リピーター」が多数おられるようだが、それは無理もない。これはある種の「麻薬」のような危うさと快楽を秘めた稀有なひとときだった。

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