ジャン=ギアン・ケラス|丘山万里子

ケラスジャン=ギアン・ケラス
ケラスが弾く20世紀、21世紀——。

2016年6月21日 トッパンホール
Reviewed by 丘山万里子( Mariko Okayama)

Photos by 大窪道治/写真提供:トッパンホール

<演奏>
ジャン=ギアン・ケラス
伊東裕、上野通明、岡本侑也、門脇大樹、長谷部一郎、堀沙也香

<曲目>
ラッヘンマン:プレッション(1969)
コダーイ:無伴奏チェロ・ソナタOp.8 (1915)
細川俊夫:線Ⅱ(1986/2002)
黛敏郎:BUNRAKU(1960)
藤倉大:osm~無伴奏チェロのための(トッパンホール15周年委嘱作品/世界初演)(2015)
ブーレーズ:メサージェスキス(7本のチェロのための)(1976)

《ケラスが弾く20世紀、21世紀——》のタイトル。藤倉大の「ケラスのための、めちゃくちゃ難しい15分の曲」というホールの注文に応えた委嘱作品世界初演とあらば必聴、と出かけたが、満席。さすがである。
選曲、その並べ方からしてすでに聴衆のハートをがっちり掴んでいた、むろんケラスのなんたるか、をよく知っていて、ということだ。

まずラッヘンマン。楽器を抱き、かがみこんでのケラス、弦の上で弓は動くが、ん?と、もちろん、らしい、冒頭から、こする、叩く、はじく、押す、などなど、特殊奏法のオンパレード。楽譜は「一種の行為譜」(プログラムノート)で、見るからに、聴くからに、いかにもラッヘンマンなのだが、それが斬新だった時代も今も、どこか痛々しい、というのが私の正直な感想だ。伝統と革新といった物言いより、私には戦後ドイツ精神Geistの“空虚と苦渋”がそこにあるようで、それを、表現、というのは、もっと空疎。といった想念がノイズとともに頭に明滅。

次にコダーイ。やっとチェロが鳴り始める。歌う、叫ぶ、つぶやく、踊る。民族的香り豊かな抒情とモダニズム。超絶技巧もさらさらとよどみなく、響きはこっくりと芳醇、ときどき野の風。背後にバッハの姿が見え、そこにコダーイの出自の色と大胆が加わって、その立ち位置が示される。
そう、彼には愛する“根っこ”があった。

細川はどこに居るのか?
彼は国際的なポスト武満的作曲家。日本にデビューした頃のこと(西欧での評価の方が先だった)を思い出す。自作へのインタビューで、「傾聴によって超自然とのつながりを感得させる音楽を書きたい」、その超自然を「神」(彼はその頃、受洗した)と語っていた。「傾聴」がヘッセの『シッダールタ』からの啓示、という言葉とともに、西欧と東洋のありがちな図式を、でもこの人は何か違う形で包括というか、バランスを探ろうとしているのかな、と思った。
『線Ⅱ』も、とどのつまり同じところに立つ。線とは、書の毛筆の運びで、音と静寂の間(ま)をぬう彼の思念がそのまま描かれ、いかにも安定した筆致、場所の確保、を告げる。
そう、彼は東洋的思惟と西欧的神の間(とくくるのも安直だが)で、自分の“場”を手に入れた。最後の2本の弓の交差が象徴的か。

対して黛は、見事なデザイナーぶりだ。
前衛の服を着て颯爽と風切って日本の先端を歩き、どんどん脱ぎ変え、自らの思想すらもデザインして時代を泳いだその抜群のセンスが凝縮している。太棹三味線の奏法たっぷり、義太夫節たっぷり。
ほら、この人の国際性って、ファッショナブルでしょ。
もう一つの日本の在りようのモデルケース。

そうして藤倉が来る。
流れる、とにかく流れる、間断なく流れる。全体が一つのラインに貫かれ、それが絶えず変容してゆく、その持続と変化は、細密で美しく、快く、楽しい。屈託、というものがない。ハーモニクス、トレモロ、リズムパターンなどなど、精緻なレースの透かし模様がラインをうねうねと綾取りしてゆく、これはいわば日本の匠の職人技で、しかもCGみたいなテイストがある。
あらゆる超絶技巧は滑らかに吹き通り、コダーイのさらさら、とはまた違ったエンターテインメント的喜びを発散させる。
西だ東だ? そんなの関係ない。
弾き終えたケラスが、客席の藤倉に「どうだい、この演奏、気に入ったかい?」と言いたげに拳を振り上げて見せた。
音楽とは、まさに音を楽しむ“遊び”です。

で、最後、ブーレーズだ。6人の日本の若者を従えて。ケラスはアンサンブル・アンテルコンタンポランのソロ奏者だったし、偉大なカリスマの死を先日迎えての演奏となった。ソロ(ケラス)が主旋律を歌い、6人はそれに合いの手を入れたり、ハーモニクスやトレモロで飾ったり、全員一緒にグイグイ弾きまくったり。時折、若者たちに向いて指揮をするケラス、気持ち良さそう。若者たちも嬉しそう。ここにも演奏の喜び、音楽の楽しさが満ち溢れる。
ブーレーズの、ある意味、人の気をそらさないEsprit、職人芸。

この夜、ケラスが並べたのはグローバリズムとローカリズムの、世紀をまたぐ音の陳列だった、と思える。それも、カナダ、アルジェリア、フランスで育ち、仏、独、米で学んだケラスの“眼”と“空気”の鋭さと軽やかさがボーダーとボーダーレスの交錯を明確に浮かび上がらせ、その間隙を自在に揺動する藤倉の遊びといい、最後、日本の若者との間に生まれた快感といい、私はなんだか未来への明るい光を感じて高揚した。

ほどなくして、イギリスの EU離脱に、スコットランドのゴルフ場に居た米国のトランプは「国民は国境を求める」とコメントしたが、その時、私は思った。
いや、あの晩のケラスはこう言っていた。個体にはボーダーがあるが、人間はボーダーレスにもなりうる。“幻想”ではなく“想像”を。その力が僕たちにはある、と。
それが、私の感じた21世紀、というより人類への光、だったんだな。

と、私は感取、ケラスと企画にエールをおくる。

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