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庄司紗矢香 無伴奏ヴァイオリン・リサイタル|藤原聡

しょうじ庄司紗矢香 無伴奏ヴァイオリン・リサイタル

2016年5月29日 神奈川県立音楽堂
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 青柳聡

<曲目>
J.S.バッハ:幻想曲とフーガ ト短調 BWV542(ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ編)
バルトーク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタSz.117
細川俊夫:ヴァイオリン独奏のための『エクスタシス』(脱自)(2016)<委嘱作品・日本初演>
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004

庄司紗矢香の無伴奏リサイタルは意外なことに今回が初。この日と同じプログラムを持ってツアーを行なうようだが、そのうちの神奈川県立音楽堂での公演を聴く。

1曲目の『幻想曲とフーガ』。編曲自体はなかなかに優れていると思うが、もとより原曲の持つ構成美をヴァイオリン編曲に求めるのも筋が違う話ではあろう。別の曲として考えた場合には魅力的である。庄司の演奏は実に格調が高く、技巧的にも非の打ち所がない。1曲目からすごい演奏。

2曲目はバルトークの無伴奏。いわゆる民族的な香りをほとんど感じさせないような演奏で、そこから出発しながらも最晩年にバルトークが到達したようなある種の抽象的な音世界が庄司の演奏からは痛いほどに伝わって来る。こういう感覚はこの曲の他の演奏ではあまり聴いた記憶がない。こういうところに日本人演奏家としての美点が出て来るということが言えるだろうし、あるいはそれ以上にこのヴァイオリニストの求心力と完璧な技巧の賜物と言えると思う。
特に第2楽章。これほどの難技巧を要する曲をいとも簡単に(簡単な訳はないだろうが)弾いているのは並のヴァイオリニストからは考えられない。しかも余裕を持って、である。前半2曲で、既にして庄司が大ヴァイオリニストであると否応なく実感させられる。

後半1曲目は細川俊夫の新作。庄司紗矢香のために作曲された。作曲者自身の解説によれば、ヴァイオリンを独奏する庄司の姿は、「私にとって《巫女》の姿である」。「『Extasis』(脱自)とは、自分の枠を超越すること。日常的存在秩序そのものの枠を超出しようという欲望であり、エゴから抜け出ることであり、また底のない沼のような存在の深み(カオス)への抑えることのできない衝動的な欲望でもある」。
つまり、庄司紗矢香という「巫女」が、ヴァイオリンという楽器=音楽を媒介として此岸から彼岸へ向けて歌い、音楽を奏で、われわれが日常では見えない世界と交信する。巫女を介して、そこでは矮小な「わたし」や、わたしの外にある「あなた」なども溶解し、全ては世界と一体化すらするだろう。このような有様を表現しようとしたのが当曲、という。
曲は通常奏法はもちろんのこと、スル・ポンティチェロやスル・タストといった特殊奏法やさまざまなボウイングなど、およそヴァイオリンという楽器に求められる技巧と音色が容赦なく投入されているが、曲がすごければ演奏もすごいのか、それが単なる技巧のオンパレードという感じを一切与えずに、ただただこの世ならぬ別世界へ通じるとでも言うような超越性を聴き手に感知させる。
エリアーデが「宗教的人間にとって空間は均質ではない」と言う、その「非均質」さにまで思考を及ばせたような体験だった。当夜4曲中では疑いなくこの細川作品が白眉。

プログラムの最後はバッハの『パルティータ第2番』。あまりに隔絶した細川作品の演奏の後ではこのバッハ演奏ですらが霞んでしまう、と言ったら言い過ぎか。これは、こちらがピリオド的イディオムに慣れ過ぎてしまっているがゆえの感想かも知れないが、敢えて言えばシャープさに欠ける。これはこれで大変優れた演奏であるのは言うまでもないのだが、庄司紗矢香であればより鮮烈な演奏が可能なはずでは、との思いが拭えない。とは言え、予想通り「シャコンヌ」は圧巻ではあったが(フレージングで気になる点もあった)。

思えば庄司紗矢香の演奏には実演でそれなりの回数接しているが、今日は調子が悪かったな、と感じたことは1度もない。徹底的な自己節制の賜物なのだろうと思うと同時に、まだこの若さでこれほどの集中を孕んだ演奏をしていて身が持つのだろうか、と心配にもなる。

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