クリスチャン・レオッタ ベートーヴェン・ピアノソナタ全曲演奏会|小石かつら

0001クリスチャン・レオッタ ベートーヴェン・ピアノソナタ全曲演奏会

2016年5月15日 京都府立府民ホール“アルティ”
Reviewed by 小石かつら( Katsura Koishi)
写真提供:京都府立府民ホール“アルティ”

<演奏>
クリスチャン・レオッタ(ピアノ)

<曲目>
ピアノ・ソナタ第16番ト長調Op.31-1
ピアノ・ソナタ第8番ハ短調Op.13「悲愴」
ピアノ・ソナタ第24番嬰へ長調Op.78
ピアノ・ソナタ第32番ハ短調Op.111

400人程の聴衆が、たったひとりの演奏者に集中する。その演奏者は、たったひとりの作曲家に集中する。それも、たったの2週間に5回もの連続公演。京都府民ホールで開かれたクリスチャン・レオッタのベートーヴェン、ピアノ・ソナタ全曲演奏会は、昨年12月の2週間に4回、今回5月の2週間に5回、合計9回で開催された(内1回は重複公演のため8回に全曲を振り分けている)。レオッタは2002年、22歳でベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏会をおこない、以来、今回で20回目の全曲演奏会だという。14年間で20公演、まさに全曲演奏会の専門家だ。もちろん全曲CDも録音している。

その、最終回の演奏会を聴いた。当日のプログラム最後の作品は、ソナタの最後の作品Op.111だ。レオッタは、この第二楽章(終楽章)に心血をそそいでいた。
会場全体が別の世界になっていったのは、第一楽章の後半、フーガが始まるころからだ。それまでは「ピアノの演奏」だったのだが、対位法の描き分けが、オーケストラのパート間の重なり合いのごとく積み重ねられていく。指揮者の持つ「軸」が、身じろぎせずに存在し、そこに、いくつもの楽器が自由に、重層的に加わっていく。その圧倒的なまでの重厚感に包まれて、息をすることさえ忘れそうになっているところに、ひとすじの光がさす。ハ長調の、ドミソの音。単純な、本当に単純な音のならび。
むしろ無造作に始まった第二楽章の開始は、まさに別の世界とのつながりを示すものだった。この第二楽章は、変奏曲になっているのだが、いずれの変奏曲も淡々とすすむ。ひとりの演奏者が、空間と対話している。それに集中するわたしたち。変奏曲のひとつひとつが、あたらしい扉をひらいていくかのように、次の空間を提示していく。そしてそれが最後の空間になったとき、トレモロがキラキラと輝いて、にごりがない残響がひびきあう。ああ、本当にきれいだと思った。

違和感があったのは、プログラムに寄せられた文章。「(レオッタ氏は)10時から14時まで、そして昼食後16時から20時までひたすらピアノに向かいます。メトロノームを2倍遅くして正確にそして運指を確かめるように徹底して繰り返し弾きます」と、前回の滞在時のことが綴られていた。
おそらくこの記述をソースとして、新聞の記事にも同様のことが書かれていた。これは何を意味するものなのだろう。長時間ストイックに作品に対峙する演奏者の姿におどろき、その一端を切り取ってこのように記述したのだろう。
けれどもこの記述による先入観は、いかんとも拭いがたい。どうしても演奏の背後からメトロノームの音がカチカチと聴こえてくるから不思議だ。そして、「メトロノーム」に合わせた価値判断をしようとしてしまう聴衆の私がいる。メトロノームに合わせたような表面的な演奏だ、という意地悪な目つき、メトロノームに支えられた軸のあるテンポ感、という感嘆のつぶやき、はたまた、今日のこの演奏の背後には禁欲的な努力の積み重ねがあるのだ、という教養市民的納得。
いずれも、まったく演奏とは関係がない。いったいぜんたい、「ストーリーとしての売り込み」は必要なのだろうか。聴衆ひとりひとりが、演奏者と自分の時間とを共有し、そこに、それぞれが、それぞれの、ストーリーを紡ぐ。そんな自由で主体的な聴取がないがしろにされ、パッケージとして買い物をさせられているような気分になった。

という世俗のざわめきも、プログラム最後の作品の途中、完全に消えたのだった。

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