Menu

柴田高明 マンドリンリサイタル|小石かつら

マンドリン柴田高明 マンドリンリサイタル

2016年4月16日 青山音楽記念館バロックザール(京都)
Reviewed by 小石かつら(Katsura Koishi)

<演奏>
柴田高明(マンドリン)
江戸聖一郎(フルート)

<曲目>
カルロ・ムニエル:ラブソング
ヨハン・セバスティアン・バッハ:『フーガ』無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番ト短調BWV1001より
オリヴァー・ケルベーラ:小組曲第1番
小林由直:ペア・ウィンド
〜休憩〜
ディートリッヒ・エルドマン:小さな遊び
ラファエレ・カラーチェ:前奏曲第5番
桑原康雄:即興詩

「マンドリン」の「リサイタル」。その組み合わせの「不自然さ」に目をまるくした。マンドリンといえば、大学のサークルではないのか?マンドリンといえばアンサンブルではないのか?マンドリンを舞台でひとり演奏して、客席に聴こえるのだろうか?どんな曲を演奏するのだろうか?次から次へと疑問が湧き出る。待ちわびて、その日を迎えた。

やや空席のある会場に、ぽろろぽろろと天使の竪琴のような繊細な音がひろがる。ああ、こういう時間が流れるものかと、うっとりしている間に一曲目が終わってしまった。なんともったいない。そこでやおら柴田氏がマイクをもった。柴田高明はドイツのカッセル音楽院でマンドリンを学び、マンドリン・オーケストラも主宰している。
「長い話になります」と語り始めたので会場の雰囲気はやわらいだ。演奏会なのに話をするのは恐縮だと氏は言うが、こちらは聞きたいことだらけ。それを見透かすように疑問のひとつひとつをひもといてくれる。マンドリンが17世紀後半頃にあらわれたこと、マンドリンとはそもそも「小さなマンドラ」という意味のリュートの一種だったこと、ギターとの違い、ピックという爪ではじいて演奏すること、18世紀以前と19世紀以降で奏法が変化し、現在のようなトレモロを多用した合奏中心になっていったこと。

短かった「長い話」のあとは、バッハの『無伴奏ヴァイオリンソナタ』第1番からフーガ。これはバッハ自身によるリュート編曲。プログラム・ノートによれば、リュートとマンドリンは撥弦の音色がよく似ているとのこと。さてマンドリンによる演奏では、あたりまえながらヴァイオリン特有の摩擦音がない。そしてまたつややかに伸びる音が無いかわりに、音が減衰するがゆえの空間のひろがりがある。目を閉じればチェンバロに似た雰囲気だと言えなくもないが、小さなマンドリンを膝に置いて、語りかけるように抱え込んで演奏する、その楽器と演奏者の距離の近さが、他には無いこまやかな表現を生む。
何故バッハが、ソナタの中からフーガだけを編曲したのか、その理由がわかる気がした。そう、対話して組み立てていくフーガという楽曲の構築性が、ほんの微細な音の変化から沸きあがってくるのだ。マンドリンから出でくる小さな音のふくよかさと音楽空間の大きさに、身体が透き通るような思いがした。

当日のプログラムは、無伴奏マンドリンに加えて、フルートとマンドリンのデュオもあった。フルートは京都市立芸術大学で博士号を取得した江戸聖一郎。二人とも、関西を中心に地道な活動をつづけている。
この日のプログラムでは2曲、小林の『ペア・ウィンド』とエルドマンの『小さな遊び』を2人で演奏したが、どちらも、マンドリンのレパートリーを増やすべく書かれた作品で、さまざまな奏法が取り入れられており、聴くだけでなく見ていてもたのしいものだった。
しかも、どちらが主役とも言いがたいデュオで、両者の拮抗は聴きごたえのあるものだった。とくに『ペア・ウィンド』の、両者の間をふわりと抜ける空間は心地よかった。

リュートでもギターでもない、クラシックの独奏楽器としての「マンドリン」のリサイタル。現代楽器とは言いがたい雰囲気をたたえるが、古楽器というわけでもなさそうだ。この日に演奏された作品が、バッハを除いて20世紀以降のものと思われる作品ばかりだったからか、ロマンティックな超絶技巧が随所にちりばめられた、手に汗握る作品が多いと感じた。
1回の演奏会で聴ける曲目はごくわずかしかない。また行きたいな、と素直に思った。