パリ・東京雑感|のぞき見の勧め 行き過ぎた個人主義とは?|松浦茂長

のぞき見の勧め 行き過ぎた個人主義とは?

text by松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

ヒチコックの傑作『裏窓』はのぞき見物語だ。主人公のカメラマンの窓からは、中庭の向こうのアパートの住人たちの生活が、まるで芝居の舞台を見るように観察できる。中年の独身女性がテーブルを美しくしつらえ、おしゃれをして席につき、目に見えない客と食事している部屋、ヒノキ舞台を夢見るバレリーナが練習する部屋、そして突然妻の姿が消えた部屋。夜も昼ものぞき続けるうち、主人公は殺人に気付き事件に巻き込まれてゆく。 でもよく考えるとおかしくないだろうか。なんで人殺しの後始末をするのにカーテンをしないのか?孤独な中年女性は寂しさを、新婚夫婦はうれしさを丸見えにして生きている。恥ずかしくないのか?

フランス映画にも、のぞき趣味の男が向かいの部屋で起こった殺人を目撃する『仕立て屋の恋』がある。ブラームスの室内楽をかけ、窓の女性を凝視する仕立て屋はどう見ても病的だが、女の方もカーテンをしないで着替えるのは少し異常ではないか?でもフランス人の作家に「彼女は露出狂ですか」と聞いたら、「正常の範囲内です。フランスの観客は変に思いませんよ」という答えだった。 そういえばパリのわが家からは通りの向こうの窓の中が小さなスクリーンを見るように眺められた。赤ちゃんが初めて歩き興奮するパパ。若者の小さな部屋に次々客が訪れ、よくもこんなに大勢つめこめるとあきれるほどの大パーティー。下着姿で窓際に来て化粧する女。毎日見るうちにそれぞれの窓=スクリーンの人物たちに対して連続ドラマの主人公みたいな親しみがわいて、いつか赤の他人ではなくなっている。

他人ではない、つまりのぞいた相手はいまや隣人なのだからそこに倫理的責任が生じる。『裏窓』のカメラマンは殺人の真犯人を暴こうとして殺されかかるし、『仕立て屋の恋』の職人は女性を救うため自分が犯人のように見せかけて命を失う。どちらものぞきにともなう倫理的責任を命がけで果たしたのである。

2016_05_01_3ノートルダム付近たかがのぞきに倫理的責任などと堅苦しいことばを持ち出すのは場違いに思われるかもしれないが、そもそも窓にカーテンをする文明と開けっぴろげで生活する文明の間には宗教・モラルの違いが潜んでいるらしい。 パリに住むアメリカ人ジャーナリストは、フランスでは「日が暮れると街でも村でも、用心深く雨戸やシャッターが閉まる」のにあきれている。彼に言わせると「アメリカ人は良きプロテスタントとして、カーテンを閉める人は必ず何か隠そうとしているのだと確信しているものだから、雨戸の向こうでは、恥ずかしい行為、もしかしたら近親相姦でも行われているのでは、とつい想像してしまう。ためしに、アメリカのどこでも良いから、真夜中に郊外を散歩して御覧なさい。居間の中まで丸見えだ」そうだ。(テッド・スタンガー『なんだこりゃ!フランス人』) スタンガー氏が東京を散歩したらなんと言うだろう。ほとんどの家は昼間からレースのカーテンをかけて好奇の視線を拒否し、その上高い塀で囲まれた家が多い。ピューリタンの目には、ソドムにも負けない背徳の都に見えはしないか。 でも、いかに背徳的に見えたとしても都会の日本人には居間の中まで丸見えの生活は堪えられない。カーテンのない生活はプライバシーのない全体主義だ。

カーテン禁止の独裁国家を描いたロシアの傑作未来小説をご紹介しよう。全国民が、透明の温室みたいな家に住み、国がセックスをして良いと決めたときだけ、ピンクの切符を使ってブラインドを下ろすことが許される。 「普通の時はきらめく空気で織ったような透明な壁の中で、たえず光線を浴びて、人人の目の届く所で生活をしている。われらはおたがい隠すことは何もない。それにこういう生活が守護者(注:レーニンをモデルとする独裁者)の、困難で崇高な事業を容易なものにしている。さもなければどんなことが起こるか分かったものではない。古代人たち(注:資本主義国の国民)のまさに奇異な、不透明な住居とやらが、彼らのみじめな細胞的心理を生み出したのかもしれない。それで≪私の家は私の城である≫ということになる」(ザミャーチン作『われら』1921年)

2016_05_01_7ノートルダム付近2016_05_01_8ノートルダム付近フランス人は個人主義者というのが定説だが、パリのアパートで暮らしてみるとおせっかい焼きなのに驚く。日本の大都会にくらべ、あちらの方が落語に出てくる長屋みたいな濃厚な人間関係が残っているのじゃあるまいか。寂しがり屋が1階に住みたがるのだろうか、我が家の下のおばあさんはいつもドアを開け放して歩道に向かって立っていた。同じアパートの住人は彼女のドアの前を通るたびに立ち話をして行くから、彼女を通じて個人情報は筒抜けだ。 僕も2回ほど立ち話したあと、3回目には部屋に通され、彼女の生涯の長い物語を聞かされた。上の階に住む女医さんは東洋趣味なので、ときどき食事に招いてくれる。そのかわり、彼女が老人ホームからアルツハイマーのお年寄りを迎えるときは僕が運転手役を仰せつかる。あるとき彼女のつくるケーキをほめたら、週末になるとうちのドアの前に出来立てのケーキが置かれるようになった。何といっても有難いのは、病気のとき、いろんな人が押しかけてきて、助けてくれることだ。 『C階段』というフランス映画を思い出す。安アパートに住む偏屈な若手美術評論家が同じアパートに住む老婦人の歩く姿を眺めている。とても悲しげだ。今日こそ彼女に声をかけようと心に決めるのだが実行できない。その夜老婦人は首を吊る。自分を許せない若者は、彼女の遺骨を抱え、故国イスラエルに葬ったとき、初めて心に落ち着きを取り戻す。 才能を鼻にかけたエゴイストが良心の呵責に苦しみ変貌を遂げるのは快い驚きだった。同じC階段を上り下りする仲でありながら、隣人の孤独と悲しみを見て見ぬふりするのは罪なのだ。ヒチコックの『裏窓』と共通する西洋長屋の倫理である。

和辻哲郎に言わせると、西洋の家は自分の個室を出れば廊下がもう公共世界だ。廊下はすでに往来であり、屋根のある往来(廊下)を通って自宅の食堂で食べるか屋根のない往来(道路)に出てレストランで食事するかの間に本質的な違いはないと論ずる。

フランス人と結婚した若い日本女性が、「親を家に呼んで食事するのに夫はネクタイを締めるのよ。ついて行けない」と憤慨していたけれど、日本人にとってダイニングルームを公の場としてふるまうのは苦痛なのだ。いったん玄関を入れば思いやりといたわりだけが通用する繊細な肌触りの世界でなければならない。 西洋の家は鍵のかかる個室のドアがプライベートと公共の境目なのに対し、日本の家は塀に囲まれた門が境目となり、その中に公は侵入させない。「鍵をもって護るというような意味の個人は<家>の中では解消する。かかる<へだてなさ>を内に包みつつ、外の世界に対しては鍵のあらゆる変形(その内には高い板塀や恐ろしげな坂茂木などもある)をもって対抗するのが日本の<家>である。」(和辻哲郎『風土』から。昭和4年)。 和辻はこうした日本の家の構造とその背景にある都市成立の歴史の違いから「公共的なるものへの無関心を伴った忍従が発達」したという診断を下し、西洋では「公共的なるものへの強い関心関与とともに自己の主張の尊重が発達した。デモクラシーは後者において真に可能となるのである」とファシズムに向かう日本の不幸を予言している。

現憲法は「個人主義を助長してきたきらいがある」というので、自民党憲法草案は「すべての国民は個人として尊重される」を「人として尊重される」と書き換えている。もし<個>が、隣人を覗かない、隣人に覗かせないという守りの姿勢だけから理解されるのなら寂しいことだ。<個>が尊重され、はつらつとした個性豊かな<自己>が、隣に困っている人はいないかと、いつでも手を差し伸べる、そんな個人主義だってあるのだ。