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五線紙のパンセ|よどみつ ながれつ その2)|中村寛

よどみつ ながれつ その2)

text by 中村寛(Hiroshi Nakamura)

東京都慰霊堂、蔵前橋のほとりに隅田川のよどみを望む異形の塔、その詳細を知ったのは友人が書いた詩だった。自宅から都心に向かう途中、両国駅で電車のドアが開くといつも感じる妙な沈黙… そうだったのか、と。
戦死した友、戦災で亡くした友や母を想い「わたしの親友はみな無念の死をとげている。日本土着の芸術人の縄文人も…きっと無念の死をとげている」「あの五十年前のわたしの死者と、二千数百年前までの縄文人が…別々の存在であることを拒否したのである」⁽¹⁾と書いたのは詩人の宗左近氏だが、周囲の縄文の丘から見ると、この東京のへそのような場所が「両国」という名を持つことに、何か因縁めいたものを感じる。いにしえの死者たちと今日の死者たちの両方を結ぶ結界。この世に行き場のないものたちが集う国。
ひとが死して神となることが神話、伝説のパターンなら、それは、神も死者もこの世のものにとっては他者だからだ。若い頃、『響紋』⁽²⁾の初演にこころ打たれて教えを乞うた三善晃先生は、かつて「アンガジュマン」などと勇む私に、私信で「自分の裡には他者しかいない」と書かれていた。ピラトゥス山から降りてきたばかりの私は、その意味するものを測りかねていた。

「人間は苦役せねばならず、悲しまねばならず、身につけねばならず、忘れねばならず、戻らねばならない/もと来たところの暗い谷へと、また新たに苦役を始めるために」(ウイリアム・ブレイク『四つのゾア』)。大江健三郎氏がよく引用するこのフレーズに、もし生きることを苦と見るならば、芸術家の営みもまた修羅の道ということなのだろうか? 居場所を求めて社会とまみれ、ひととまみれて…
カジミェシュ・セロツキ賞の記念演奏会で、ブレイクのその書を曲名にした音楽をポーランド放送響が奏でたその時、不意にあの塔が私をよぎり、至る所に屹立する気配を感じた。ぎょっとしてどうにも居たたまれなくなり、演奏会の後、宿舎だったワルシャワ音楽院の寮をさまよい出た。辻々に「ここで誰が、どう戦って死んだ」という数多くのレリーフが、失われたひとたちの記憶⁽³⁾を呼び覚ましていた。足の赴くまま、やがて四方をアパルトマンに囲まれた公園に出た。犬が子どもと駆け回り、ベンチに老女がまどろんでいた。そしてレリーフ、ワルシャワゲットーの跡地だった…

ペテルブルクで、『De Profundis…深き淵より』というヴァイオリ ン・コンツェルトー詩編の祈りがタイトルの曲、若き日に三善先生の許で書いた一節を、その病床を思って書き加えた調べーを初演してもらった折にも、こんな思い出がある;マネージメントにひとりの役者を紹介してもらった。アレクサンドル・ソクーロフ⁽⁴⁾の映画でヒトラーやレーニンの役を演じたレオニード・モスコヴォイという俳優。「日本で見た」と言ったらいたく気に入ってくれて、ペテルブルク・フィルハーモニーでのレセプションの後、「野良犬」⁽⁵⁾というカフェへ連れて行ってくれた。在日経験のある、日本語が微妙にわかるアートフリークのご婦人を伴ってきて、詩を吟じてくれたり、突然、携帯電話をかけて「ソクーロフだ、話せ」と…
そんな気安さを面白がっていたら、やがてアンドレイ・タルコフスキーの話しになった。ソ連時代のことだ。ある日、モスクワの彼がレニングラードのソクーロフを訪ねてきて記者会見まで開いたので、そのご婦人もソクーロフに呼ばれて、彼と立ち話をしたのだそうだ。で、その翌日、自宅の呼び鈴が鳴るので玄関を開けたら、何とタルコフスキーがひとり立っていて、家に上がり込むなり何時間も芸術論をぶっていったと言う。
居場所を求めてさまようひと、そう思った。ふと遺作の『サクリファイス』⁽⁶⁾を思いだした;夢かうつつか、突如核戦争が勃発し、自分のすべてを捧げるので救ってほしいと神に祈る主人公。預言者めいた友人に「<魔女>である出入りのお手伝いと寝れば、世界は救われる」と吹き込まれて、彼女に愛を懇願する彼… 気がつくと普段通りの翌朝。
核兵器というプロメテウスの火への贖罪を、我が家を燃やす「生け贄」によって果たし、狂人として救急車で運ばれてゆく主人公は、亡命によって家を失い、癌によっていのちをも失おうとしていたタルコフスキーの自画像なのだろうか。
はっと我に返り、背筋が凍り付いた。カフェの一室に写真を掲げられた詩人達。かつてここに集い、後にその多くがスターリンの粛正に消えていったひとたちだった。居場所を奪われたひとたち…

後に、スウェーデン放送響が「輪廻のうた」という意味の『Song of Samsara』という曲をISCMのフェスティヴァルで演奏してくれたのは、『サクリファイス』のロケ地・スウェーデンのゴットランド島だった。「巡り合わせ」、そう思った。呼ばれていたのだろうか?

プロメテウスは、自然の脅威にさらされてあまりにも弱々しい人間に、天界の火を盗んで与えた。ゼウスはそんな彼を罰した。その時、火は畏敬されるものから利用されるものとなり、ことばは言霊から支配のための道具、法となった。そして法外なもの、異質なもの、都合の悪いものは我々の間から排除されていった。
他者とは一切の向こう側にあって、こちら側のどんな言葉にも組せず、しかもそれを見た途端、もはや忘れることも無視を決め込むこともできないものだ。「<私>には内包し得ない絶対的に他なるもの」⁽⁷⁾。
私がそれまで他者と信じていたものは、自分と同じようないのち、その間の違いでしかなかった。例えばここ、両国回向院。ここでは仏自らがその都度、行き場を失ったものたちと共に焼かれ、今もなお、あらゆる向こう側のものたちといつも共にいるではないか。
どんなに意を尽くしても語り尽くせないこと、語ることの出来ないものがある。しかしそれは「ない」のではない。そんな語れないものにこそ耳を傾けること、それが聞こえてくるものを聞くということだ。声なき声。その呼び声、叫び声。ブレイクの墜落神話、詩編の嘆き、世界中に遍在する霊… それは行き場を失ったものたちの悲しみ。いつしか私も彼らに取り憑かれ、こころ蝕まれていった。

うつつか夢か、空(うつお)舟に封じられ流されて、芦屋の浜で僧に「こころの闇を弔い給え」と謡う能楽『鵺(ぬえ)』、それは、死者の想いは死者自身にしか語り得ないことの表れだ。ただ不気味というだけで退治され、「仏法王方の障りとならん」呪ってやると化け出て、やはり不気味と調伏されて闇に沈んでゆく異形の霊、私達が暮らしの中から追いやったもの。この世のものではない謡のたゆたう調べは、あの塔の辺りで震災の火焔に巻かれ⁽⁸⁾、流言蜚語に殺されていったひとたち⁽⁹⁾の木魂なのだ。

幕府の開闢以来わずか100年で、当時の世界最大の人口を誇る巨大都市となった江戸下町。かつて葦の生い茂っていた原野は、欲いう肥料を得たひとが繁茂する人間野となって、およそ50年おきにひとびとが大火にまみれる穢土⁽¹⁰⁾となった。流れに身を任せるままだった神々しい川の流れは、消費という神が流す「人のよどみ」となって、今も鵺を流し続けている

(註)

1:『私の死生観』
「わたしの死者たちは、どんな文章も残していない。泡のように消えてしまっている…また、縄文人についても同様…日本人のルーツ、母胎。それなのに、切り離されて、日本の歴史のむこうの闇のなかにある」(同)
2:童声合唱と管弦楽のための作品。民主音楽協会委嘱、1984年民音現代音楽祭で初演。
3:http://www.1944.pl/galerie/fototeka/
4:彼もソ連時代、映画大学の卒業作品に当局のクレームが付き、ペレストロイカまで10年間、映画制作が出来なかったひとだ。その彼を認めてレニングラードの映画スタジオに就職を斡旋したのがタルコフスキーだった。処分しろといわれたフィルムを、友人がこっそりタルコフスキーに見せたのだという。
5:若き日のアンナ・アフマートヴァ、マヤコフスキーやメリエルホルド達がたむろしていたアートカフェ。ソ連時代は閉鎖され、ミレニアムに復活した。
6:1986年カンヌ映画祭、審査員特別大賞ほか。その年の末、タルコフスキーはパリで客死した。
7:エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』
8:http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923–kantoDAISHINSAI/index.html
9:http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923-kantoDAISHINSAI_2/index.html
10:http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1657-meireki-edoTAIKA/index.html

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中村 寛(Hiroshi Nakamura)
1965年滋賀県生まれ。タラゴーナ市作曲賞(スペイン)、カジミェシュ・セロツキ作曲賞(ポーランド)、ストレーザ音楽週間作曲賞(イタリア)、ISCM「World Music Days」フェスティヴァル入選(スロヴェニア、スウェーデン)、日本音楽コンクール作曲部門第1位、東京文化会館舞台創造フェスティヴァル最優秀作品賞、日本交響楽振興財団作曲賞最上位入賞・日本財団特別奨励賞、芥川作曲賞ノミネートなど。2011年セイナヨキ作曲賞・聴衆賞(フィンランド)、受賞作はCD化予定(http://www.skor.fi/)。多田栄一氏、三善晃氏等に個人的に作曲を師事。