クリストフ・プレガルディエン&ミヒャエル・ゲース|丘山万里子

プレガル<歌曲(リート)の森> ~詩と音楽 Gedichte und Musik~ 第19篇
クリストフ・プレガルディエン&ミヒャエル・ゲース

2016年3月24日 トッパンホール
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 藤本史昭(Fumiaki Fujimoto)

<演奏>
クリストフ・プレガルディエン(テノール)
ミヒャエル・ゲース(ピアノ)

<曲目>
シューベルト:『水車屋の美しい娘』 D795

抑制の効いたドラマ。
『水車屋の美しい娘』を聴いて、プレガルディエンの端正な歌唱とその歌声を彩るゲースのピアノに、小さな淡色画の連作を一つずつ、丁寧に、時に、流れるように眺める喜びを味わった。色調は落ち着いて深く、濃やかに彫琢され、大仰な身振りが一切ない。
そうして、すべてに、小川のせせらぎが聴こえた。
優しかったり、切なかったり、不安だったり、いろいろな瀬音を立てるけれど、ずうっとその水底に湛えられていたのは「寂寞」だった気がする。

それは、例えば第6曲<知りたがり屋>での、小川への「 O Bächlein meiner Liebe 」という呼びかけにそこはかとなく宿っている、なんとも言いようのない、寂しさ、哀しさ。
何が、どう、ということないのだけど、胸がほんの少し締め付けられるような感じ。終節のもう一回の呼びかけを、プレガルディエンはいっそうピアニシモでささやいて、ジン、とさせた。
第8曲<朝のあいさつ>の冒頭、「Guten Morgen, schöne Müllerin!」もかすかな翳りを帯び、その一声だけで、若者の気持ちが手に取るようにわかる。その下を静かに流れ続ける小川も、見える。
一方、第10曲<涙の雨>の終句、降ってきた雨に、あら、雨、と言いあっさり家に帰る娘を見送る落胆は、少し明るいくらいの色合い。
第16曲<好きな色>の、繰り返される「Mein Shatz hat’s Grün so gern」の「Grün」も、もちろん同じ「緑色」ではない。一つ一つの言葉の並びの、句の、実に細かいところを、声質の変化とか、語りの精妙さとかで織り上げる、それは本当に見事だった。
第19曲<粉ひきと小川>は絶唱というほかない。天空を仰ぎ見て「Ach」とつぶやき、終曲<小川の子守歌>でそっと溶暗。
残光のようにそこに射し込んだのは?

もちろん、この歌曲集は青春の恋の漂流と死とを歌ったもので、そこに孤独や哀しみがあるのは当たり前なのだが、プレガルディエンとゲースが作り上げた世界は、その種の青春編ではなかった。
といって、プログラム・ノートに梅津時比古氏が書いていたように、この歌曲へのドイツでの最新の視点「差別・被差別」(水車屋、娘、徒弟青年の社会的位置)を背景としたものでも、無論、ない。
むしろ彼らの演奏は、そういう新旧の解釈を超えて、もっと深い、もっと根源的な、愛と死、あるいは生、いや、シューベルトの震えるような敏感をもってこそ触れ得た、人間の抱える「優しい哀しさ」にまで降り来たっていたと思う。
それを私はやはり「寂寞」と呼びたい。
この「寂寞」には、あたたかく、包み込むような、人への愛おしさがあって、それこそが、ずっと流れていた小川、若者を抱き入れた小川に他ならない。
人生の季節はさまざま、でも、たとえば3歳に満たない幼児が「さびしい」という言葉を口にするのを聞いたとき、思わず胸を突かれた、そういうレヴェルの、人間の存在の深部に横たわる普遍的な感情といったらいいか。
歌い終えて抱き合う二人の姿に、私はそれを受け取ることのできた感謝を捧げずにいられなかった。

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