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オルガンの未来へⅡ|佐伯ふみ

organ

オルガンの未来へ Ⅱ

2016年2月11日 ミューザ川崎シンフォニーホール
Reviewed by 佐伯ふみ(Fumi Saeki)
Photos by 青柳聡

<演奏>
近藤 岳(オルガン)
菅原淳(ティンパニ) *の作品のみ

<曲目>
斉木由美:ファンファーレ
近藤譲:ノヴィタス・ムンディ
ミヒャエル・ラドゥレスク:リチェルカーリ
鈴木輝昭:コンドゥクトゥス(*)
斉木由美:Die Mütter/母たち

オルガンの新たな可能性をさぐる

<ホールアドバイザー 松居直美 企画>と銘打たれた意欲的な企画。若手のオルガニスト・近藤岳(こんどう・たけし)が、とくに日本人作曲家に光を当てて、現代のオルガン作品ばかりのプログラムを構成。めったに聴けない内容で、楽しみにして出かけた。

開演前と休憩後の2回、松居氏と作曲家たちのトークがあり、この企画の意図を説明し、作曲家たちがそれぞれパイプオルガンという楽器への思いを語り、自作品を解説する。オルガンにも現代作品にもなじみの薄い聴衆に対する、丁寧な配慮がうかがわれる。 とくに開演前のトークでは、斉木・近藤・鈴木の三氏のオルガンとの関わり・スタンスが語られて興味深い。オルガンは数ある楽器の中でも、キリスト教文化と切り離せない特殊な楽器で、日本人にとっては最も「遠い」、扱いにくい楽器であろうと察せられる。オルガンのための音楽を依頼されて、作曲家の頭にどのような思いが去来するのか。三者三様の思いと、その後に聴いた作品の印象が響き合って、考えさせられることが多かった。

開幕の斉木由美『ファンファーレ――カンティクム・クレアトゥーレ(被造物の賛歌)』は2005年の愛知万博オープニング演奏会で委嘱・初演された作品。斉木はトークにおいて、自分はクリスチャンとして日常的に礼拝の奏楽もおこなっていてオルガンは身近な楽器と語り、また、プログラムの解説では、旧約聖書の一節「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ」(詩編第100篇)から着想を得た作品と書いている。冒頭の先鋭的な旋律――この1フレーズに賭けた近藤の裂帛の気合いが素晴らしかった――はまさに神からの呼びかけであり、それに対し、生きとし生けるものが歓呼の声をあげ全地が「どよもす」。オープニングにふさわしい作品である。

続く近藤譲の『ノヴィタス・ムンディ』はそれとは全く対照的な作品。1998年に松本市音楽文化ホール(ザ・ハーモニーホール)のパイプオルガンを使ったリサイタル(演奏者:保田紀子)のために作曲された。近藤がトークで語っていたのは、たとえば外国人が尺八のための音楽を書くのと同様に、伝統を知らないことが逆に有利に働くことがある。オルガンを、それまでとは異なる見方で扱うことで、新しい側面を引き出すことができないか? ということ。題名は「世界の新しさ」を意味する言葉。そこはかとなくユーモラスな、無機質な音の連なりが果てしなく続く。確かに、オルガンの既製のイメージを裏切るような、実験的な音響である。演奏者にも聴き手にも感情移入を拒むようなこうした音楽に、オルガニストはどのような姿勢で臨むのだろう。

ラドゥレスク『リチェルカーリ』(1984年作曲)は組曲の3曲すべてでオルガンらしい持続低音が特徴的。第1、第2曲は一種の宗教性を帯びた瞑想的・スタティックな曲想、「エスタンピ」と題された第3曲は名前の通り舞曲のリズムに中東の音楽を想わせる独特の旋律がのり、変化があって面白い。

休憩後の鈴木輝昭『コンドゥクトゥス』も保田紀子のリサイタルのために作曲されたもの(1992年)。クリスチャンではないがミッションスクールでオルガンに親しんだ経験がある、作曲家ひとりの力ではなかなか把握が難しい楽器なので、演奏家との共同作業が必要である、基本的には「鍵盤でものを言う」ことにこだわりたい、と語る鈴木。多彩で人間的な温もり/情感を感じさせる音響、そしてティンパニの菅原淳の素晴らしいパォーマンス。舞台上に置かれた演奏台(コンソール)の近藤岳と、菅原との競演を目で楽しめることもあって、客席も俄然、生き生きしてくるようだ。演奏する音楽家の身体も、音楽会の印象を左右する重要な要素なのだと改めて思う(オルガンはその点もまた不利である)。おそらく鈴木の作品そのものが、演奏する喜び・快感のある音楽で、それが客席にも伝わるのだと思う。3部構成の最初と最後に響くクロマティック・カウベルの音が印象的。

ここで、再び松居と斉木が登場。次の斉木作品『Die Mütter/母たち』の解説をおこなう。このリサイタルのために委嘱され、近藤岳に献呈された新作であり、2015年に没後70年を迎えたドイツの女性美術家ケーテ・コルヴィッツの作品からインスパイアされた曲。解説ではその版画を映写しながら、1曲ずつ作曲の意図や聴きどころを語っていた。「嘆き」「闘い」「安らぎ」「祈り」と題された4曲から成り、戦争の悲劇、喪失の悲しみと憤り、つかのまの安らぎなどを音楽で描く。オルガニストに対し、超絶技巧を要求する作品でもあるという(素人にもわかりやすい「難しさ」として、足鍵盤を使った長大なトリルが挙げられた)。

この2度目のトークで松居が改めてこのコンサートの意図を説明。「本来は教会にある楽器が、日本ではそれとは切り離されてホールにぽんと置かれている。その数、約1000台。これらが本当に日本の楽器として根付いていくためには、日本の作曲家がつくった音楽が、日本の演奏家によって演奏され、日本の聴衆に享受されることが必要」。同感!

全体にとても聴き応えがあって、これだけ内容の濃い演奏会はなかなかない、貴重な企画であった。 ただ、再考してみてはどうかと思われる点が2つあった。1つはトークの扱い。2回目は簡潔にしたほうが良かったかもしれない。これから聴く作品に対して、具体的に「~を表現してみました」といった解説をされてしまうと、いざ音楽が始まったとき、それをなぞるように聴いてしまう。意外性や新鮮な驚きがなくなって、解説が長かったため集中も切れて、音楽を聴きながらいささか疲れを感じた。もっとも、これは筆者の個人的な感想で、丁寧な解説がありがたいと思った聴衆も多かったかもしれないが……。もう一つは、演奏者の近藤岳の声も聴きたかったということ。もしかしたら2回目のトークを、近藤+斉木にしても良かったのではないか。 ただしこれは、良い演奏会だったので欲を言えば……という程度のことで、全体の好印象を損なうものでは決してない。シリーズのさらなる展開を楽しみにしている。

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