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Books|ナディア・ブーランジェ|丘山万里子

ブーランジェナディア・ブーランジェ〜名音楽家を育てた“マドモアゼル”〜

ジェローム・スピケ著
大西穣訳
彩流社/2015年9月出版
2800円+税

text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

ナディア・ブーランジェ(1887~1979)は93歳にいたる生涯を通じ、欧米の音楽界に君臨した(本書を読むとそういう言葉を使いたくなる)音楽家、あるいは音楽教育者である。
この書は、彼女のリハーサルに参加し、メニューイン祭での朝の散歩に、彼女との「特別な瞬間」を共有することができた「素晴らしい記憶」を持つフランスの声楽家、音楽学者のスピケの筆による。「音楽に身を捧げた偉大な修道女、マドモアゼル・ブーランジェ」の禁欲的な姿が、多数の写真や書簡のコピーとともに生き生きと描き出されている。
禁欲的、とはスピケの言葉だが、ブーランジェは彼女が常にまとった厳格で地味な服装(ごく一時期、鮮やかなプリントドレスを着た)、母と、若くして逝った作曲家、妹リリへの弔慰を、死に至るまで示し続けたということにおいてのみ、そう言えるのであって、富裕層の社交場やサロンに格別の興味と参入を果たし、時の権力に対しても「機会を与えられたのなら、独裁者とならない人がいるでしょうか。」「音楽については私こそ独裁者なのよ。」と語るあたり、禁欲的とは言いがたい。スピケがあちこちに埋め込んでいるその種のエピソードや挿句は実に興味深い。
たとえばこんな言葉。「彼女は自分の見たいものだけを見るように常に心がけ、有名人の飛ぶ鳥を落とす勢いに興味を示し、その流れに乗っていたのである。」

偉大な音楽家、音楽教育者としての活躍の詳細は順を追って語られ、その名言はいたるところにちりばめられている。「学生たちは個人的に面倒を見ないと、取り返しのつかない過ちを犯すことになる。しかも一方で、彼らに、集団の雰囲気を知り、賛成や反対意見を促し、他人の考えを知らせることは、音楽的な意味合いではないにしても、人間的に必要不可欠である。」
そうした偉業を俯瞰するのもよいが、筆者がとりわけ関心を持ったのは、アメリカとの関係だ。むろん、彼女の周囲には、山ほどたくさんの有名老若男女がいた。掲載されている自筆書簡だけでも、フォーレ、サン=サーンス、ドビュッシー、コープランド、ラヴェル、ガーシュイン、ミヨー、プーランク、リパッティ、バーンスタインなど。ストラヴィンスキーとは1910年の出会いから彼の死までの長い友愛が特筆される。
が、とにかく、彼女の世界的な名声は、アメリカにおける勝利が大きいと筆者は読む。
22歳で応募、その後35年間、彼女に職の扉を開かなかったコンセルヴァトワールを横目に、1921年アメリカの支援のもと創設されたフォンテーヌブロー・アメリカ音楽院で教えはじめたクラス(「音楽分析」は彼女の天職となった)は、アメリカから送られて来る音楽学生たちの聖地となる。その一期生コープランドは、その後、アメリカでの「最も有能な広報担当者」となった。アメリカという新興勢力が、ブーランジェの輝かしいキャリアの後押しをしたことは注目されよう。
1924年の渡米は大成功で、研究者や音楽仲間との関係構築と同時に上流階級の応接間も手に入れた。12年後の再渡米でも「空前絶後の名声をたくみに利用」し、リリと自作品保存のためのリリ・ブーランジェ記念基金をボストンに設立している。
戦争勃発時には、ストラヴィンスキーを亡命させ、自身もフランスを逃れ、ほぼ5年の歳月を当地で過ごす。無傷のアメリカ各地で休むことなく音楽活動に専心した彼女は、戦争終結とともに「凱旋帰国」し、やはりほとんど無傷に守られたパリのアパルトマンに戻るのである。
要するに彼女は、ヨーロッパがこうむった損傷から離れたところで、ひたすら音楽の使徒として生き、戦後も生き続けることができたわけで、それを可能にしたのはアメリカだった、と言っても過言ではなかろう。
フォンテーヌブローの音楽院はただちに再開され、同時に彼女はコンセルヴァトワールの教授にも就任、メシアンをはじめとする新たな音楽の潮流のなかでも揺るぎない地位を占め続け、その死に際し新聞は「マドモアゼルはもういない」との見出しをつけたのであった。

ブーランジェは、西欧からアメリカへと世界の覇権が移る時代に生きた。彼女の音楽活動はまさに「その流れに乗った」もので、その嗅覚、したたかなエネルギーには敬服するほかない。「音楽に身を捧げた偉大な修道女」との称賛の一方で、スピケは随所に彼女の「二面性」をも滑り込ませており、その意味で興趣のつきない書である。
彼女の最期に面会が許され、言葉を交わしたのがバーンスタインであったことは、その見事な人生航路を象徴するものであったと言えよう。

西欧からの亡命音楽家たちの活躍によって、アメリカはスターを輩出する音楽大国となった。その栄華の一端を担ったジュリアードのドロシー・デュレイは、マネジメントに長けた名ヴァイオリン教師として名声をほしいままにしたが、ブーランジェとデュレイ(ちょうど一世代下)の間にある相違、時代の流れというものをも、深く考えさせられたことである。