カデンツァ|希望の光|丘山万里子

希望の光

text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

年頭にあたり、希望の光を。

先般、区立中学校に子どもを通わせている知り合いから、学内弁論大会で、感銘を受けた1年生の少女のスピーチのことを聞いた。「なぜ戦争はなくならないのか」というテーマで話したという。私は内容を知りたいと思い、頼んで、スピーチ原稿を入手した。
その全文をご紹介したい。

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《なぜ戦争はなくならないのか》

今、日本には戦争というものがありません。皆さんもわかっていると思いますが、戦争がないということはとても幸せなことです。しかし世界には、何も悪いことをしていないのに、戦争なんかしたくないのに、している国もあります。
私たちには関係ない。そう思っている人もいると思いますが、同じ人間として生きている中で、人の死に関わることには、目を向けた方がいいと思います。

昔、日本では第一次世界大戦、第二次世界大戦、アジア太平洋戦争などいろいろな戦争が行われてきました。その時の日本のくらしは、男性たちは戦争に行ってしまったため、女性が働き、女性が子育てをしていました。
そして、食料が不足してお弁当を学校に持っていけず、学校で倒れてしまう子供もいました。私たちの今のくらしと比べてみて、どう思いますか。私たちが普段通っているこの中学校で給食が毎日食べられなくなり、倒れてしまう人がいたら。
そんなことを想像してみると、当時の人がどんなに辛いかわかりますね。人の命を奪うことしかできない戦争のせいで、家族や友達が失われていくこの痛みが。
そして、アジア太平洋戦争では、原爆が落とされ、今まで以上に犠牲者が出て、多くの人の命が失われました。当時の人の心はきっと、暗い闇のどん底まで落ちてしまったと思います。私は、日本の人々にこの思いを二度として欲しくないし、したくないと思います。

そして私は、何のために戦争があるのか、私たちに出来る事は何かないのか考えました。きっと戦争は、自分は強く生きたい、強くなくてはいけない、何かが欲しい、などの周りのことを考えず、自分の命を大切にしない、自分勝手な思いが、生み出すのではないかと思います。
なので、どんな場所でどんな場面でも、周りの人のことを考えるという事は、とても大切なことだと思います。
そして私たちにできる事は何か。それは、身近にあったのです。例えば、私たちが学校で食べている給食を、なるべく減らさず、残さないことです。貧しくて食料が不足している人や、食べたくても食べられない人がいる中で私たちは毎日食べられています。それだと言うのに私たちは、減らしたり、残したりします。私はもう少し感謝の気持ちを込めて食べたほうがいいと思います。
これが私たちにできる小さなことです。

最後に、なぜ戦争はなくならないのか。この世界に周りの人のことを考えず、自分のことだけしか考えない人がいる限り、戦争はなくならないと思います。たとえ、それが戦争でなくても、ケンカでも同じことです。
私は、これからはなるべく周りの人のことを考え、まずは、この中学校からケンカをなくし、そしていつか、この世界から、争いがなくなることを心から願います。

松原 遙(Haru Matsubara)
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想像すること、痛みを感じること。身の回りのことから考え、行動してゆくこと。
この少女は、マララ・ユスフザイの本を読んで、このテーマでのスピーチにしたという。まさに、「本とペンを手にとり」とマララが言ったように。
こういう少女がいること、私たちのありふれた日常のなかに存在していること。
それは私たちの未来の希望の光だ。

パリのテロから1週間後、ベネズエラの青少年音楽教育プログラム、エル・システマで学んだテレサ・カレーニョ・オーケストラ・オブ・ベネズエラの演奏を聴いた。アンコール、ベネズエラ国旗の鮮やかな3色のジャンパーを着た若者たちが、楽器を手に踊りながら弾くマンボは、そのピチピチはじける若さと熱狂がまぶしかった。
貧困や犯罪から子どもたちを救う教育プログラム、エル・システマは、日本でも東日本大震災で被災、原発の不安を抱える福島の子どもたちの音楽教育支援など、その活動を拡げつつある。テレサ・カレーニョ・オーケストラ・オブ・ベネズエラと子どもたちの共演も福島の地に熱い興奮を巻き起こした。
ここにも、未来の希望の光がある。

レンブラント・ファン・レイン「蝋燭の明かりのもとで机に向かう学生」東京 国立西洋美術館蔵

レンブラント・ファン・レイン「蝋燭の明かりのもとで机に向かう学生」東京 国立西洋美術館蔵

12月初めに、寺嶋陸也のピアノでシューベルトを聴いた。
最晩年の3つのソナタの音の波間から浮かんできたのは、束の間と永遠。
シューベルトは愛しいメロディーをいつまでも手のひらで転がすような「限りなさ」がある一方で、ふいとどこかへ身を移し、掻き消えてしまうような「はかなさ」があり、そこに寺嶋のピアノはさりげなく触れる。
とりわけ第21番の第2楽章には、深い祈りのようなものが宿っていて、いつまでも私の胸のなかに響いて消えなかった。
こういうものを音楽から受け取ったとき、私たちは、とどのつまり、人間を信じること、人間の美しさを信じること、を受け取るのだ、と思う。
そうして、批評はいつでも、そのこと、受け取った、人間の美しさをこそ語りたいのだ。
音楽とともにある私たちにとって、一番大切なもの。
人間の美しさへの信頼と敬意。
ここにも、過去から未来へと、つながる一筋の希望の光がある。

小さなろうそくの灯1本でも、集えばあかあかとした輝きになる。
ろうそくは溶けて無くなっても、ともしびは、手渡せる。
希望は、先人から未来世代へと、どこかで、誰かが継いでゆく。
未来へ、負の遺産しか残せないような危機的世界状況にあって、私は楽観主義者ではいられない。
子どもたちの貧困は、スピーチした少女の周囲にも普通に、ある。
だからこそ、どこかで誰かがかかげるともしびに敏感でありたい、と思う。
そこに連なる自分でありたい、と思う。