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五線紙のパンセ|その3)二二が四(ににんがし)|石島正博

その3)二二が四(ににんがし)

text by 石島正博(Masahiro Ishijima)

芥川龍之介に『十本の針』というJ.ルナールの『博物誌』に似た箴言集のようなものがある。その中の「2+2=4」は次のように綴られる。

「2+2=4ということは真実である。しかし事実上+(プラス)の間に無数の因子のあることを認めなければならぬ。すなわちあらゆる問題はこの+(プラス)の中(うち)に含まれている。」

また、「空中の花束」には次のような言葉がしたためられている。

「科学はあらゆるものを説明している。未来もまたあらゆるものを説明するであろう。しかしわたしたちの重んずるのは唯科学そのものであり、あるいは芸術そのものである。———すなわちわたしたちの精神的飛翔の空中に捉えた花束ばかりである。」

実に印象深い文章だ。そして、芸術について真に正鵠を得た思惟ではないか、と私は思う。

同様のことを芥川は別書で次のように言い換える。

「“芸術は科学の肉化したものである”と云うコクトオの言葉は中(あた)っている。もっとも僕の解釈によれば<科学の肉化したもの>と云う意味は<科学に肉をつけた>と云う意味ではない。科学に肉をつけることなどは職人でも容易に出来るであろう。芸術はおのずから血肉(けつにく)の中に科学を具えている筈である。いろいろの科学者は芸術の中から彼らの科学を見つけるのに過ぎない。芸術の———あるいは直観の尊さはそこに存しているのである。 僕はこのコクトオの言葉の新時代の芸術家たちに方向を錯(あやま)らせることを惧(おそ)れている。あらゆる芸術上の傑作は<二二が四(ににんがし)>に終わっているかも知れない。しかし決して<二二が四(ににんがし)>から始まっているとは限らないのである。僕は必ずしも科学的精神を抛(ほう)ってしまえと云うのではない。が、科学的精神は詩的精神を重んずる所に逆説的にも潜(ひそ)んでいると云う事実だけを指摘したいのである。」(同『続文芸的な、余りに文芸的な』)

20世紀以降、現在までの約100年間に起こった作曲の技法や概念の変遷(無調、12音技法、ノイズ、可逆/不可逆リズム、具体音楽、不確定性、電子音響音楽、スペクトル音楽、ミニマリズム、ライヴ•エレクトリック、マルチメディア等)は言わば音楽の科学的な、狭義には化学的、工学的なシステムと人間の感覚と心理、精神に関わる領域との聴覚的融合を試みた多様なプロセスだった。問題は果たして、それらがコクトオの指摘する「科学の肉化した芸術」、芥川の注釈によれば「(作品の)中におのずから血肉された科学」であったかどうか。そして、それらが同時に芸術として「精神的飛翔の空中に捉えた花束」に成り得たかどうか、である。

音楽は第一義的には耳のため(耳を楽しませる、と言ってもいい)のものである。しかし、音楽は耳と同時に直接わたしたちの記憶に働きかける。そして、さらに多重的な観念や次元を想像させる。例えば、聴かれるための「沈黙」や見ることのできない音の「形」や「流れ」の豊かさをわたしたちは音楽に強く感じる。

しかし、それらの豊かさを実現するためには一定の形式が必要である。この場合、形式とは唯ソナタのような音楽形式の秩序を指すのではなく、作品全体の構造の有機性を得るための時間のフォルム、と言い換えてもいいだろう。そして、その形式は必然的に内容と一体でなければならず、その意味で形式はあくまでも作品個々に内在する。 そしてその形式を見出だす力は知識などではなくてあくまでも直観であり、その直観は「精神的飛翔の空中に捉えた花束」のように作品の時間を一挙全体的に捉えていなければならない。

2+2=4

私は、この+(プラス)の中(うち)に含まれている無数の因子の内で最も重要な因子は「不可知」ではないかと考えている。無論、不可知とは人間が知り得ないという意味である。

自然科学は未知と不可知に満ちている。例えば人間の眼の進化について、A.パーカーによれば、人間の眼は初め植物の光合成を行なうタンパク質が初期の動物に遺伝子レベルで入り込んだことを起源とする。その後、父と母それぞれ0.5ずつという遺伝子の配分が、1+1=2、2+2=4のように偶発的な変異で、倍数的に増加したことで、光しか感知できなかった眼が、レンズ眼に進化し、動きと形、色彩までも捉えられるようになったという。
この遺伝子の偶発的な増加、すなわち+(プラス)の要因は不可知である。

芸術にあってもまた「二二が四(ににんがし)」というコスモス(秩序)は、創意という眼には見えない符合を含んだ上での演算の結果なのであり、その意味で、芥川の言うように「あらゆる問題はこの+(プラス)の中(うち)に含まれている。」

創意とはカオス(混沌)から噴き上がる炎のようなものである。

カオスは闇。白川静の『字統』に《神の「音なひ(訪れ)」が現れることを闇という。「音」とはもと目に見えないもの…》とある。その「音」は《聲なり。心に生じ、外に節有る、之を音と謂う》とある。そしてその「心」は《心臓の形。土の蔵、身の中に在り。象形。博士説に以て火の蔵となす。蔵は臓の意》とある。

火の蔵に響く音を、闇から聴きとる。 それが私のなりわいだ。

自筆譜/フルートとギターのための「仕草」

自筆譜:フルートとギターのための「仕草」

 

 

 

 

 

 

 

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石島正博 Masahiro Ishijima(1960〜)
桐朋学園大学卒。三善晃に師事、八村義夫に私淑した。武満徹主宰MUSIC TODAY国際作曲コンクール・ファイナリスト、日本音楽コンクール(管弦楽部門)3位、第10回民音現代音楽祭委嘱、87-89年フランス滞在。研究・著書に「ラヴェルピアノ作品全集」(全3巻)(全音楽譜出版社刊)他がある。現在、桐朋学園大学教授。