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チャイロイプリン「三文オペラ」|大田美佐子

Concert Review

sanmonチャイロイプリン 踊る戯曲3「三文オペラ」

2015年10月27日 三鷹市芸術文化センター 星のホール
Reviewed by 大田美佐子(Misako Ohta)
Photos by 福井理文(Ribun Fukui)

<出演>
演出・振り付け・構成: スズキ拓朗
音楽: 朝比奈尚行(時々自動)、鈴木光介(時々自動)
美術・映像: 青山健一

ジョナサン・ジェルマイヤー・ピーチャム:宮崎吐夢
シーリア・ピーチャム: ジョディ
ポリー・ピーチャム: エリザベス・マリー
メッキース: スズキ拓朗
ブラウン: NIWA
ルーシー・ブラウン: 田中美甫
酒場のジェニー: 今井夢子
流しの演歌師: 清水ゆり

死刑執行人(演奏)

トランペット: 鈴木光介
アルトサックス: 日高和子
クラリネット: 砂川佳代子
アコーディオン: 高橋牧
ヴォーカル: 柴田暦

チャイロイプリンの踊る「三文オペラ」 -「踊る」三文オペラとオペラ的時間の崩壊

新聞紙で作られた張りぼての拡声器に、小ぶりのミラーボール。舞台の始まる前も、終わった後もロッテ・レーニヤがジェニーを歌う懐かしい響きが会場に流れる。この作品がいた場所を暗示するように。

三鷹市の芸術文化センターで、「踊る」三文オペラを観た。演出・振り付け・構成は、踊る戯曲シリーズを上演し、マルチな才能をもつ注目のスズキ拓朗。

三文オペラを「踊る」発想は、奇想天外ではない。作家兼演出家のブレヒトは、俳優術に関する議論で「身ぶり」の重要性を説いた。ピナ・バウシュが取り上げた『七つの大罪』を挙げるまでもなく、ブレヒトは「身体性」と縁の深い作家なのである。ジャズの真髄を、「踊る音楽」として捉えていたヴァイルの音楽もまた、踊るためのリズムを軽快に刻んでいる。メナヘム・ゴーラン監督の『三文オペラ』(1989年、アメリカ)では、これを逆手にとったピーチャム商会の乞食たちによる群舞シーンが印象的だった。

スズキの『三文オペラ』も一見、自治体のゴミ袋でできたチープな衣装を纏いシャラシャラと音をたてて踊る群舞や、舞台装置をダイナミックに動かすその躍動感に支配されているかにみえる。しかしここで重要なのは、強烈なキャラクターで物語を進めるという意外に古典的な枠組みと、メッキースの希有な存在感。それにオペラの時間感覚を崩壊させる音楽である。

個性派俳優枠のピーチャムとピーチャム夫人は、ミュージシャンとしても活動する大人計画の宮崎吐夢と女子プロレスラーのようなジョディ。この二人が登場するだけで何かが起こりそうな灰汁の強さが舞台全体に広がる。AKBのアイドルのようなコケティッシュな魅力全開のポリー役エリザベス・マリーと、端正なダンスと美貌の田中美甫演じるルーシーとのバトル。そして、妖艶で謎めいた今井夢子のジェニー。脇を固める役者も個性が際立つ演技派揃い。時間の流れを断ち切る古典的なブレヒト幕も健在だ。ピエロのような衣装を着てアコーディオンを弾き歌い、浮世離れした流しの演歌師(清水ゆり)が、物語の道先案内をする。「キャラクター」という、現代日本のポップカルチャーにも通じるこの古典的な枠組みが生きてこそ、その個性を逆手にとったような、違和感のあるメッキースの表象が際立つ。

「死刑執行人」と名づけられた音楽家は、時間軸をあやつる黒幕として象徴的だ。処刑台に登るカウントダウンに始まり、天井から軽量の人形メッキースが落とされた。そこから、フラッシュバックのように本編が始まり、メッキースが黄泉の暗闇から現世に踊り出すのである。「オペラ」の時間感覚は、上演時間1時間50分のすさまじいスピード感で、言葉をすり抜け、映像(美術:青山健一)も駆使し、スラップスティックコメディに、演芸に、ゲームに、サーカスに化けた。

スズキ演じる(踊る)メッキースには、沢田研二、三上博、鹿賀丈史ら、歴代のメッキース役者が提示してきたような、生々しい色気がない。動きのキレや流麗さには目を見張るが、「ダンディズム」や「ダークヒーロー」とは遠い。逆にその奇妙な軽快さが、メッキースの存在を問う不思議な効果をもたらした。並び立つスタンドマイクに「俺はメッキース」と言いつつ踊るダンサーは、もはや舞台に君臨する今宵の主役ではないのだ。

清々しいまでにヴァイルの原曲をデフォルメし、オリジナルを加えた時々自動一流の『三文オペラ』の世界は、通常の編成と異なり、トランペットやクラリネット以外にも、大木琴、口琴、倍音唱法、マラカスなどの多彩な響きが楽しめる。柴田暦が透明感のある声で歌うブレヒト・ソングは、この歪められた時間軸のなかで、作品に帰れる場所としての存在感を放った。時々自動の意表をつく響きは、軽快なメッキースとともに、時間軸を揺らし続ける。彼の処刑から恩赦、「コラール」のカタルシスまで上り詰めて行くはずの第三幕の音楽のドラマトゥルギーは、あっけなく刑が執行されて、崩壊した。

恩赦を告げる使者が来ないだけではない。屋台崩しと同時に、突如日常の時間が吹きすさぶ。そこには悲劇もこない。誰もが自分の仕事に集中し、交わろうとせず、黙々と「舞台」を終わらせようと去って行った。祭りの後に、メッキース「かもしれない」彼が救済される理由は、鈍重で贅沢な時間をもてあます「身分の高い人」の恩赦などではなく、忙しく飛び回ることに「疲れてしまった」音楽家(朝比奈尚行)の気まぐれだ。ドラマトゥルギーから、完璧にはしごを外されたメッキースは、もはやコラールを歌わない。壮麗な群舞を踊った30人あまりの黒子たちが白い縦笛で吹く「モリタート」のウタは、明るい葬送行進曲のように響いた。救いはあったのか、なかったのか?

30歳のブレヒトと28歳のヴァイルが旧来の演劇やオペラに対する「アンチテーゼ」として世に出したこの作品。87年後の2015年、30歳のスズキ拓朗の若い魂は、キャラクターという古典的な枠組みを利用しつつ、三文オペラのなかに生き続けた「オペラの時間軸」を崩壊させることで、マージナルな作品を見事に飛翔させた。

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大田美佐子(Misako Ohta)
東京生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科で音楽学を、学習院大学大学院人文科学研究科でドイツ演劇を学ぶ。ウィーン大学音楽学研究所留学 (オーストリア政府奨学生) を経て,ウィーン大学人文学研究科博士課程修了(音楽学)。博士論文は「芸術の要請と 社会的効果 1930年代へと向かうクルト・ヴァイルの音楽劇」。専門は音楽文化史、音楽美学。2003年より神戸大学に在職。2013-14年 ハーバード大学音楽学部客員研究員。新聞で舞台批評の分野でも活動。ヴァイル関連の論文には「アメリカで見た景色─クルト・ヴァイルの社会派音楽劇の軌跡─」(岩波『文学』所収2014年3,4月号)などがある。現在、神戸大学大学院人間発達環境学研究科准教授。