カデンツァ|批評をめぐって|丘山万里子

批評をめぐって

text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

時は、還らない。
ハイデガーは「存在と時間」を語り、道元は「永遠の今」を語った。
命は刻々、ということを、音はいつでも、私たちに示す。
その重さ、深さ。
音を紡ぐ人と、生まれ出る音と、その刻々をてのひらにすくいとり、こぼれてゆくその速さにあらがいながら、言葉を必死に継いでゆく、それが批評だ、とずっと思ってきた。
刻々の「今」を、言葉に定着させたい、という、とめどない欲動。
同時に味わう、言葉の無力。

ここ半年、『音楽現代』誌の依頼で《遠山一行と吉田秀和》という連載を書いた。
書き始めに、なんとなく思い描いた着地点は、毎月、ひとつひとつのテーマを選びとってゆくうちに、だんだんはっきりしてきて、結局、「批評は演奏」という言葉に収斂した。第1回で、遠山が慕った河上徹太郎の言葉、「批評はプレイ」に触れたのだが、それと呼応する形になって終わったのは、遠山、吉田という二人の批評家に導かれてのことだろう。吉田の背後には小林秀雄が、遠山には河上がいて、それを遠目に見やりつつ、の道行きだった。

「批評は演奏」とは、どういうことか。
吉田、遠山が遺した最晩年の言葉に、共通してこの句があることは、興味深い。
吉田は死の前年2011年に雑誌のインタビューで、「批評も演奏と同じ。」と語っている。吉田は、さかのぼること40数年、小林秀雄についての回想のなかで、かつて小林宅を訪問したとき、彼が「私はもう演奏家で満足です。独創的な思想家などというものは・・・。」と言ったことに触れている。そうして、小林が演奏という言葉で言い表したものは、創造と伝統という問題についてのある中核的な思想を指すように思われる、と述べている。つまりは、批評の巨人の晩年の批評観が、批評は演奏、という境地となったことに、当時の吉田は強い印象を受けたわけで、それは吉田自身の言葉にもなった。
吉田が演奏を創造と伝統の中でとらえ、それを小林の批評観に見たのは、自身の批評の地点の自覚でもあったろう。「自分で考え、自分で感じとり、自分で動いている、その考え方、感じ方、動き方の中に、自分だけというのでなくて、ある遠くから、古くから伝えられてきた何かがあって、自分が自分になればなるほど、その何かの存在がはっきり自覚されるようになる。あるいは逆に、その何かの在り方について自覚すればするほど、自分はますます自分になる。」批評が楽曲とその演奏の関係と相似だ、という吉田の理解の底にあるのは、「自分」というものの置き場所だ。自分のなかに含まれている、歴史とか世界とか。誰かとか、みんな、とか。あなたとか、私たち、とか。私を編んでいる、時間と空間の横糸と縦糸みたいなもの。そういうことの自覚。そこからの批評。仏教の華厳世界を、ふと、思い出す。

遠山の絶筆は2010年、中原中也記念館の特別企画展《河上徹太郎と中原中也〜その詩と真実》への寄稿『河上徹太郎と音楽批評』。遠山はここで「批評とは音楽における演奏に当たるものだ」という河上の言葉を紹介している。演奏がプレイやシュピーレンであるように「批評もまた“遊び”であり、単なる知的な解釈を超えた自由な行為」とは、遠山の批評の根幹で、彼が批評を語るたび、引き合いにだされるフレーズだ。遠山はこれを、吉田のように平易には説明しないが、遊びという感覚にある自由さが最も大切なのだ、というのは伝わる。吉田の創造と伝統とは、一見ちがうように思えるが、吉田の言う「自分で考え、自分で感じとり、自分で動いている、その考え方、感じ方、動き方の中」の「自分だけ」の部分に足場を置くもので、つまり、創造の要点である自由な遊び、を強調するわけだ。遠山は批評を何より「自由な経験」に基づく、とし、その経験を「その人にとってはやはり消し去ることができない人生の一つの時間であり、歴史です。その歴史に対して、一人一人が責任を持とうと思った時に、その責任の持ち方が批評だというふうに私は思っています。」と傘寿記念の私家本で述べている。遠山はクラシック音楽の意味を、「他者との遭遇」という言葉でも語るが、ここには、私とはちがうあなた、という意識に痛切に向き合って、その孤独と自由を引き受けるのが批評だ、という信念がうかがえる。吉田の<私のなかのあなた>と、遠山の<私とちがうあなた>は、でも、両方とも、<私とあなた>の<関わり>を見ている、ということではおなじだろう。

「批評は演奏」を、私なりに噛み砕いてみると。
批評も演奏も、とどのつまりは<私が今、生きること>の刻々の軌跡だから、批評は演奏なのだ、と私は思う。私の存在をささえる時間軸と空間軸、歴史と世界の交点から生まれる音が演奏なら(例えばアルゲリッチは、そういうことを知らせてくれる稀有な演奏家だ)、その音楽営為に刻々と触れる、その交点と交点の重なり、出会いの航跡を、孤独と自由の重量を荷なった言葉で綴ってゆくのが批評だ、と私は思う。批評もまた、「存在と時間」「永遠の今」に命を持つのだ、やっぱり。
演奏家や作曲家はそれを音にするけれど、批評家はそれを言葉でやる。言葉でしかできない。宿命的にそうで、その宿命に常に食(は)まれているのが批評家だ。

さて、この誌面の「Message」で、私は、批評は「呼びかけ」と言っている。
どういうことか。
それは、<響応>ということ。三善晃は、これを「共震」と言ったっけ。
それぞれの<私のなかのあなた><私とちがうあなた>の無数の交点が、響き合い、応じ合うということ。孤独の深さは<愛>を教え、自由の重さは<責任>と等量。おなじことと、ちがうことを、いつでも同時に響かせ合いたい。音楽がそうであるように、批評もまた、そういう言葉でありたい。
今、情報の氾濫の一方で、自閉的な世界がどんどんひろがっている。生身の人間ひとりひとりの温もりある交感が、失われつつある。つまり、他者への無感覚。想像力の欠如。異質なものへの不寛容、排斥。
だから、刻々の「今」を、てのひらに握り、言葉に響かせ、あなたへ、みんなへ、批評は、呼びかけるものでありたい。
あなたが私を明らめ、私があなたを明らめ、世界が響応のうちに、より豊かなものへと拓けてゆくように。