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藤原歌劇団公演|《カプレーティ家とモンテッキ家》|藤堂清 

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ヴィンチェンツォ・ベッリーニ作曲:《カプレーティ家とモンテッキ家》 

2016年9月10日 新国立劇場オペラパレス 
Reviewed by 藤堂 清(Kiyoshi Tohdoh) 
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)(撮影は9月11日公演)

<スタッフ>
指揮:山下 一史
演出:松本 重孝
美術:荒田 良
衣裳:前岡 直子
照明:山口 暁
舞台監督:菅原多敢弘
合唱指揮:須藤桂司

<キャスト>
ロメオ:向野 由美子
ジュリエッタ:高橋 薫子
カペッリオ:安東 玄人
テバルド:笛田 博昭
ロレンツォ:東原 貞彦

合唱:藤原歌劇団合唱部
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
総監督:折江忠道
主催:公益財団法人日本オペラ振興会

ベッリーニの《カプレーティ家とモンテッキ家》は、彼の短い作曲家人生の半ば、1830年に、ヴェネツィアで初演された。物語は「ロミオとジュリエット」であるが、二人がすでに恋仲であることや、ロメオ(イタリア語の役名)がモンテッキ家の当主であるなど設定が異なる点はある。台本自体がシェークスピアに依拠しておらず、イタリアでの伝承に基づくものというのが理由。
ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニといった、いわゆるベルカント・オペラに力を入れている藤原歌劇団が大切にしたい演目。同劇団は、ロメオにソニア・ガナッシ、ジュリエッタにマリエッラ・デヴィーアをむかえて2002年に上演している。今回は松本重孝による新制作の舞台。また、コンサート活動が中心の指揮者、山下一史を起用したことも注目点だろう。

序曲のシンフォニックな響きは通常とは違う、山下の音楽が初めから響く。
幕が開くとカプレーティ家の一族が集まっている。その一人、テバルドは、ジュリエッタへの愛とカペッリオの息子を殺したロメオへの復讐を誓うアリアを歌う。笛田の強く安定した響きがホールを満たし、一気にオペラの世界へと連れて行ってくれた。厚みのあるテノール、今後が期待できそう。そこへ、モンテッキ家の当主ロメオが、ヴェローナ領主エッツェリーノ大公の使者として登場。両家の和平のためとロメオとジュリエッタとの結婚を求めるが、受け入れられず、また今夜ジュリエッタとテバルドの婚礼が行われると聞き、怒りをあらわにする。ここでのロメオのカヴァティーナとカバレッタは音域も広く、動きもあり、この役の聴かせどころ。向野は大きな声の持ち主ではないが、前半ではベッリーニの美しいメロディを柔らかに歌い、後半は男声合唱と対峙し、しっかりと歌い上げた。
次の場の冒頭で、ジュリエッタがロメオとの愛を思い、テバルドとの結婚を嘆いて歌う<あゝ、いくたびか>は、このオペラの中でもっとも有名な曲。以前の高橋は頭声を中心とした発声が気になったのだが、この日は中低音域から高音域までむらなくつなげ、優美な旋律線を聴かせた。ロレンツォに導かれてロメオが登場し、二人の愛を確認。婚礼から逃れるため駆け落ちを迫るロメオに対し、父親の名誉を考え踏み切れないジュリエッタ、その二重唱も二人の声がとけ合い美しかった。
あきらめて立ち去ったロメオだが、変装し婚礼の場からジュリエッタを連れ出そうと図る。しかし、カプレーティ家の者に見破られ窮地に。モンテッキ家の郎党が助太刀に入り、混乱のうちに幕となる。ここでは合唱団が歌唱面とともにはげしい動きをみせた。また、山下の指揮のもと、オーケストラがドラマティックに情景を描き出していた。

第2幕はジュリエッタがロメオの身を心配しているところから始まる。ロレンツォがロメオの無事を知らせ、結婚を避けるには、薬により仮死状態となり、墓所に葬られた後、ロメオと駆け落ちするしかないと説得。薬や墓所への不安、また父に背くことへの葛藤を感じながらも受け入れるジュリエッタ。ロレンツォの東原がやわらかな声で包み込むように歌った。高橋の揺れ動く気持ちの表現もさすが。
つづくロメオとテバルドの対決場面、途中でジュリエッタの死を告げる合唱が響く。ロメオはテバルドに自分を殺してくれるよう頼むが、テバルドもまた自分が彼女を死に追いやったと苦しむ。オーケストラのダイナミクスを大きくとり、緊張した場面を作り出した山下の指揮、興味深く聴いた。向野と笛田も互いにバランスをとりながら、両者の落ち込む様子を表現した。
最終場面はカプレーティ家の墓所、ジュリエッタが横たえられている。後は誰もが知っている展開。従者を去らせ歌うロメオのカヴァティーナ、技巧的な困難さはないだけに人を引き付けるのは難しいのだが、向野は一言一言に気持ちを込め、彼の悲しみ、絶望を明らかにしていた。

この上演のために作られた舞台という制約のためか、比較的簡素な装置、複数の場面で共通する部分などもみられたが、教皇派の緋色など一貫性がみられた。合唱の動きも舞台の限られた部分で無駄な動きがなかった。主張のある演出というのではないが、音楽に集中するにはよいこと。
山下の指揮は全体的にオーケストラを浮き立たせ、よく行われる伴奏的な演奏とは異なる味わいを出した。1830年という年は、ロッシーニが《ギョーム・テル》を発表した翌年、ベルリオーズは《幻想交響曲》を生みだしている。ベッリーニの音楽にもそういったロマン派への流れがあることを教えてくれた。

最後に余談を二点。
新国立劇場のオペラパレス、本当に聴きやすい劇場。おそらく歌う側にとってもやさしい劇場だろう。もっと他団体の利用があるとよいのだが。
プログラムにも、チラシにも、「ロミオとジュリエット」のバルコニーシーンが使われていた。だが、このオペラにはその場面はない。筆者ならどういう絵にするかと問われても、アイディアはうかばないけれど。

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