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東京都交響楽団 第797回 定期演奏会|藤原聡

tokyoConcert Review

東京都交響楽団 第797回 定期演奏会Bシリーズ

2015年11月2日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 堀田力丸(Rikimaru Hotta)/写真提供:都響

<演奏>
指揮:大野和士
ヴァイオリン:ヴァディム・レーピン
ソプラノ:スザンヌ・エルマーク
ソプラノ:イルゼ・エーレンス

<曲目>
ラヴェル:スペイン狂詩曲
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第2番 ト短調 作品63
細川俊夫:嵐のあとに-2人のソプラノとオーケストラのための(2015)
〈都響創立50周年記念委嘱作品・世界初演〉
ドビュッシー:交響詩「海」-3つの交響的スケッチ

東京都交響楽団(都響)は今年(2015年)で創立50周年を迎えるが、これを記念して大野和士の指揮の下で11月に大規模なヨーロッパ演奏旅行を敢行する。そのツアーの「前哨戦」として、同一プログラムでサントリーホールにおいてコンサートが開催されたが、筆者はこれを聴いた。

演奏前に、当夜が世界初演であった都響創立50周年記念委嘱作品『嵐のあとに』の作曲者細川俊夫と大野和士のプレトークが行なわれたが、ここでの細川の発言からいくつかのポイントを大まかに拾ってみる(走り書きのメモにて表現の違いはあるかも知れないが)。
① 東日本大震災の後に一体何が出来るのか、ということを考えた。都響から作品を委嘱された際には、「嘆きだけではなく希望が感じられるような作品を」という希望があった。
② 『嵐のあとに』において、歌詞で「風雨で花々が折れ砕かれて横たわっているが、再び愛する光の中に頭をもたげて向かっていく」(大意)と歌われるが、ヨーロッパ公演に際しての「外への」メッセージである。
③ 楽曲前半は嵐と雨の描写でオーケストラのみの激しい部分。ここは打楽器が中心的役割を果たす。後半に2人のソプラノが登場して「嵐のあとの花」を歌うが、ユニゾンで歌ったり分裂したりと、1人の「巫女」の二面性を表している(注:「音楽はシャーマニズムの一形式であり(中略)、私は2011年以降、様々な編成でこのシャーマンの祈りの音楽を書き続けてきた。この『嵐のあとに』もその1つである」とのプログラムでの細川の文章がある)。

以上を念頭に当夜の細川作品を聴くと、この作曲家にしては音楽のドラマトゥルギーが普通の意味で分りやすく構築されていることに気付く。音楽は聴こえるか聴こえないかのティンパニの皮をこする音から始まり、弦楽器はポルタメントやトレモロを駆使した特殊奏法を繰り出し、管楽器は普通に吹かずに息を吹き込むことにより「風」の効果を生み出す。殊に凶暴な打楽器群の表現力には瞠目させられるが、これが拍節を刻むコアにもなる。これらの「普通ではない」楽器法の駆使により、これが具体的な嵐の描写であると同時に、超自然的で人智の及ばぬ超越的かつ破壊的な巨大な力の存在を否応なく聴き手に印象付ける(細川の言葉がなくとも、ここで3.11の出来事を思い出さないでいることは難しい。何にせよ、細川もわれわれも「3.11」以降の世界を知ってしまっている)。そして、「嵐」が一段落して音楽の流れが止まったかと思われた絶妙なタイミングでソプラノがやにわに歌い出す。この歌が音楽と歌唱ともども非常に感銘深く、「打ちひしがれて倒され横たわる地面」のイメージから「光に向かって」上向していく運動イメージが見事に音楽に具現化されていたように思う。細川作品をさほど多くは聴いていない筆者だが、『嵐のあとに』はその訴えの強さにおいて恐らくはこの作曲家の中でも傑出した作品であると思う。これは初演であるから、演奏が繰り返されるに従って作品の多様な可能性も掘り起こされていくことであろうが、この日の演奏は大変な精度と誠意に満ちた優れたものであったのは間違いない(余談ながら、この曲の感情のありようを他の楽曲で説明するのであれば、異論はあろうが筆者ならばマーラーの『亡き子をしのぶ歌』の最終部分、「こんな嵐のときに」を持ち出す。嵐が共通するだけで内容は異なるけれど)。

当夜のメインイベントであった細川作品初演を主体に書いたが、1曲目のラヴェル:スペイン狂詩曲は大野らしく極めて精緻かつ端正な演奏。ここに遊びやら官能性を求めるとちょっと違う、となるけれど・・・。この精緻かつ端正な大野の持ち味は最後のドビュッシーではよりプラスに作用している。全く雰囲気に流されない、ある意味厳しい演奏とも言えるが、この緊密さはドビュッシーの「交響曲」とも言いうるこの曲において、全曲を有機的なフォルムの中にまとめ上げることに成功していた。フランス的なたゆたう流れ、色彩感覚などとは違う座標に位置する演奏で、オケのマッスの迫力で聴かせた感もあるけれど、この水準の演奏の前には全く文句を言う気にならない(しかし、細川作品の「水」(嵐における雨)とドビュッシーでの「水」(海水)。これはむろんコンセプチュアルなプログラミングだが、その水の様相の違いと来たら。根源には計り知れぬものが内在しているのは同じとしても)。

順序は前後するがレーピンが登場してのプロコフィエフ、当夜は細川作品の初演とこれが疑いなく白眉。上手すぎて弾き飛ばしがちにならない訳でもないこのヴィルトゥオーゾのベストフォームか。ていねいでありながらスピード感と躍動感、切れるリズムの冴えがあり、あるいは短いスパンで次々に音色と表情を変えて来るのであるが、プロコフィエフはこうでなくてはならない。大野のサポートもまずは最高(ところでプレトークでの大野の発言に触れれば、細川作品での2人のソプラノの、そしてラヴェルのスペイン狂詩曲冒頭の、さらにはこのプロコフィエフ冒頭のヴァイオリン・ソロの直後のオケの弦楽はそれぞれ「ユニゾン」で通底している。これもまたコンセプチュアル)。

この日は終演が21:30近く。疲労を覚えながらも非常な充実感を味わったすばらしいコンサートであった。

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