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台湾フィルハーモニック2019日本公演|能登原由美

台湾フィルハーモニック2019日本公演

2019年5月6日 ザ・シンフォニーホール
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
写真提供: Taiwan Philharmonic

<演奏者>
指揮|リュウ・シャオチャ(呂紹嘉)
ヴァイオリン独奏|リチャード・リン(林品任)
管弦楽|台湾フィルハーモニック

<曲目>
芥川也寸志:交響管弦楽のための音楽
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲ホ短調Op. 64
(アンコール)
J. S. バッハ:無伴奏ヴァイオリン パルティータ第2番ニ短調BWV1004-4Giga
〜〜〜〜〜〜
江文也:台湾舞曲Op. 1
シベリウス:交響曲第2番ニ長調Op. 43
(アンコール)
シベリウス:悲しいワルツ

 

日本と同じく東アジアの民族ながらも、近代以降、西洋音楽を吸収していった台湾。歴史や風土は異なれども、人々の気質は日本人に似ているとも言われる。では、その表現法はどうだろう。1986年創設と聞けば比較的新しいように思われるが、いまや台湾を代表するオーケストラだ。その来日公演を聴いた。

何よりも、奏者達のストレートな表現力には驚いた。例えば木管楽器のソロ・パート。ソロと言ってもオーケストラの一パートであることに変わりはないのだが、その場面ともなればここぞとばかり、自らの音に、歌に酔いしれる。音はもちろんのこと、奏者の体の動きも然り。そのストレートで自由な「個」の表現に聞いている(見ている)方が気恥ずかしくなる時もあるが、「集団」よりもその内部にいる個々の存在がはっきりと感じられるのは清々しくもある。そのためにアンサンブルに多少の乱れが生じるのも事実だが…。一方、「調和」を重視する日本の場合、確かに乱れは少ないが、個の存在を消し去ろうとするかのようで息苦しく感じられることもある。果たしてどちらが良いのであろう。

楽団の音楽監督で今回タクトを握ったリュウ・シャオチャは、このようにそれぞれが熱を持った奏者たちをうまくコントロールしてきたようだ。楽曲によって表現法を巧みに変化させていたが、それが演奏にも表れていたように思う。今回用意したのは4曲。その中には日本と台湾双方の作曲家の作品も含まれる。

両国の友好関係を表すとも言えるその2曲の演奏は、いずれも興味深いものであった。冒頭に演奏された芥川也寸志の《交響管弦楽のための音楽》、後半最初に演奏された江文也の《台湾舞曲》。共に、金管や打楽器を多用し煌びやかな音色とリズムで花を咲かせるなど、東アジアの民族色豊かな作品だ。様式は違えども、その根底に流れるものは近しいことが良くわかる。1936年のベルリン・オリンピック芸術競技音楽部門で受賞したという江の作品については、日本の植民地下にあった当時、台湾人ながらも「日本代表」として参加した時のものという。その背景には苦々しいものを感じるが、こうして日本でその歴史的事実も含めて作品を紹介していく意義は大きいだろう。

一方、メンデルスゾーンの《ヴァイオリン協奏曲ホ短調》は、台湾育ちで現在はアメリカで研鑽を積むリチャード・リンがソロを務めた。2013年には仙台国際音楽コンクールで優勝し、昨年にはインディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクールで優勝している注目の若手である。確かにそうかもしれない。正確なテクニックはもとより、ストラディヴァリウスの濃厚で芯の強い音色に決して負けないだけの豊かな表現力を秘めている。けれども、今回の演奏、果たして彼自身は自らを十分に表現できたと思えただろうか。というのも、特に冒頭から緩徐楽章までは、ミスや齟齬のない演奏という点に意識が向かったようで、音楽に流れや伸びがなく歌心にも乏しい。ようやくその音に生気が見られるようになったのは終楽章に入ってからだ。急速なパッセージを生き生きと軽やかにこなしていく。ただ、熱を帯びると走りすぎてしまうようでもある。もしかすると最初の楽章では、こうした自らの癖を抑制しようとしたために窮屈な演奏になっていたのかもしれない。

メインとなるシベリウスは、全体として颯爽と草原を駆け抜けるような印象を持った。ただし、芥川作品でもそうであったが、シャオチャは金管や打楽器などは総じてフレーズを短めに取り、軽く弾けるような音を作る一方で、弦楽パートには厚くふくよかな表情を持たせる。その結果生じるコントラストは素晴らしいのだが、早いパッセージになると重くもたつく傾向がある。テンポをコントロールすることで流れを作り出しはするものの、アンサンブルがその変化に柔軟に反応できていない場面もあった。

けれども、このオーケストラはまだ若い。いや、団体の歴史や奏者の年齢のことを言っているのではない。個々がそれぞれの表現を臆することなく音にしているということ、彼らの音楽が生気に満ちあふれているということである。その点は高く評価したい。では逆に、奏者が自らの表現を極力抑え、全体を優先することが至上とされる場合、果たしてそういったアンサンブルは「成熟した」と言えるのだろうか。決してそうではないように思う。もちろん、これは何も音楽に限ったことではないのだが。

(2019/6/15)