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ユジャ・ワン ピアノ・リサイタル|藤原聡

%e3%83%a6%e3%82%b8%e3%83%a3%e6%9d%b1%e4%ba%acユジャ・ワン ピアノ・リサイタル

2016年9月7日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<曲目>
シューマン:クライスレリアーナ op.16
カプースチン:変奏曲 op.41
ショパン:バラード第1番 ト短調 op.23
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第29番 変ロ長調 op.106『ハンマークラヴィーア』
(アンコール)
シューベルト(リスト編):糸を紡ぐグレートヒェン
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第7番 変ロ長調 op.83『戦争ソナタ』~第3楽章
ホロヴィッツ:ビゼー『カルメン』の主題による変奏曲
モーツァルト(サイ/ヴォロドス編):トルコ行進曲
カプースチン:トッカティーナ op.40
ラフマニノフ:悲歌 op.3-1
グルック(ズガンバーティ編):メロディ

いやはや、無尽蔵の才能と輝きである。この夜にユジャ・ワンが演奏した曲目は別項を参照されたいが、これらを1人のピアニストが一晩で弾いてのける、という事実。誤解を恐れずに書けば、まだ若い、そして非=ヨーロッパ圏の演奏家だからこそ可能な幅広さだろう。それぞれの楽曲への距離感がフラットなのである。これは美点と捉えるべきだ。

最初から大掴みな印象を記したが、順を追って行こう。1曲目はシューマンの『クライスレリアーナ』を弾いたのだが、余談めくけれどもその経緯がいささか不思議であった。当初の予定ではスクリャービンやグラナドスを弾く予定であったのだが、筆者はSNSにて、当夜の3日前に神奈川県立音楽堂で開催されたユジャのリサイタルにおいて、前半が変更になって『クライスレリアーナ』が弾かれた、との情報を得ていた。さて7日は? と興味津々でホールに向かうと、「演奏者の強い希望により曲目・曲順が一部変更になる場合がございます」との紙をレセプショニストから配られる。可能性を仄めかすような文章だが、思わず「『クライスレリアーナ』ですかね?」と訊いたところ、「はい」との返事。決定していたのだろう。また、その『クライスレリアーナ』が終わって当然前半はこれで終了だろう、と思っているとカプースチンを弾き始める。何やらアンコールのような風情(しかも本プログラムでシューマンとカプースチンを並列とは)。その後にはさらにショパンまで。ここまでで、何か狐でもつままれたような感覚に陥った(演奏内容とは関係ない、と思われるかも知れないが、こういう事象までをも含めていかにもユジャ・ワンだな、と思うと同時に、その演奏を総体として「綜合」しにくいことにもいくらかは繋がりがあるように思う)。

さて、その『クライスレリアーナ』は名演奏だった。<オイゼビウスとフロレスタン>であるとか、「拡散していく分裂性」であるとか、そのようなキータームから語られうるような枠に収まりきらない、実に自由な演奏に魅了される。かと言ってむろん平坦な演奏ということではない。むしろ逆だ。リズムは瞬間瞬間に弾け飛び、ピアノの音色は輝きに満ちる。まるで小爆弾が炸裂するかのようだ。こういった「陽」の部分ではまるでアルゲリッチを彷彿とさせるのだが、アルゲリッチよりも輝かしい。反面第4曲に顕著なように、極めて遅いテンポで底の底まで沈滞していくかのような表現の幅の広さをも見せつける。但し、これらの表現にはどこか常に楽天的かつスポーティな快楽が潜んでいる。それはドイツ・ロマン派ともE.T.A.ホフマンとも関係がない。しかし、関係がないゆえに天晴れな演奏となっている。型にはまらない音楽。

先述のようにこの後にカプースチンの小粋な小品を躍動的に捌いた後にショパンの『バラード第1番』が弾かれたのだが、これが若さに似合わぬ実に成熟した演奏であり、ここでもまたユジャの変幻自在ぶりに不意打ちを食らわされる結果となる。何といっても旋律の歌わせ方の上手さと弱音部の繊細な、それでいて芯の通った響きの美しさには脱帽させられるし、コーダの華麗さは目も眩むようだ。しかも、これらに作為的なところが全くなく、いとも流れが自然なのである。もしかすると当夜一番の聴きものはこれだったかも知れない。

休憩後の後半は、ユジャのイメージとはあまり結びつかない『ハンマークラヴィーア』。果たして、結果はユジャがこの曲を弾いたならばこういう演奏になるだろう、という通りの音楽になった。構築性、重厚さ、精神的な含みは一切ない代わりに、冴え渡る変幻自在なタッチの変化と音色、クリアな和音、軽快なリズムが際立つユニークさ。中でも一番の聴き物は第3楽章。このいかにも精神的なアダージョをショパンのように弾いた、と言う意味で大変に面白く―ということは怒り出す御仁もいるかも知れない、ということだ―、まさにユジャならではの音楽となっていたのだ。評価は割れるだろうが筆者は楽しく聴いた。

そして怒涛のアンコール大会になだれ込む。別項を参照頂きたいが、この日ユジャは7曲弾いた。これだけで40分はあったと思うが、中でもプロコフィエフで聴かせたオルギアの極みとでも言うべき終盤への高揚(しかし弾いている本人は至って冷静なのだ)、さらにはそれぞれファジル・サイとヴォロドスの超装飾的難解アレンジを合わせ業で放り込んでくる曲芸的「トルコ行進曲」、そしてアンコールの最後にはしんみりと内省的にグルック=ズガンバーティの『メロディ』で締めくくるニクさ。このアンコールの曲間、聴衆の喝采と盛り上がりはクラシックのそれとは一線を画し、ほとんどアイドルを思わせるようなものだったのがいかにもユジャ・ワンである。

露出度の高い衣装やら(当夜はそうでもなかったが)、翳りのない/思わせぶりのない健康的な音楽やら。こういうアーティストのアティテュードと演奏に対して「クラシック演奏家」としての違和感を感じる向きもいるとは思う。しかし、ユジャを通して、クラシック音楽に新たなファンが付いているというのは紛れもない事実であり(この日サントリーホールに集まった若い聴衆を見ても明白だし、先述のようにその喝采ぶりもそれを物語る)、そしてユジャのやっている音楽の質は、好悪を越えて凡百の演奏家の及ばないほどの高みにある。後は聴き手それぞれがどう捉えるか、の問題だけだ。筆者は? 全面的には納得しない。しかし、その枠の中で「最高だ」。

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