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マウリツィオ・ポリーニ ピアノリサイタル|藤原聡

ポリーニマウリツィオ・ポリーニ ピアノリサイタル(川崎、東京公演)

2016年4月9日 ミューザ川崎シンフォニーホール
2016年4月21日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)撮影:4/21サントリーホール

♪2016年4月9日 ミューザ川崎シンフォニーホール
<曲目>
ショパン:前奏曲 嬰ハ短調 op.45、舟歌 嬰ヘ長調 op.60、2つのノクターン op.55、子守歌 op.57、ポロネーズ第6番 変イ長調 op.53『英雄』
ドビュッシー:前奏曲集第2巻

♪2016年4月21日 サントリーホール
<曲目>
ショパン:前奏曲 嬰ハ短調 op.45、ポロネーズ第7番 変イ長調 op.61『幻想ポロネーズ』、マズルカ イ短調 op.59-1、同 変イ長調 op.59-2、同 嬰へ短調 op.59-3、スケルツォ第3番 嬰ハ短調 op.39
ドビュッシー:前奏曲集第2巻

(アンコール/両日ともに)
ドビュッシー:前奏曲集第1巻より『沈める寺』
ショパン:バラード第1番 ト短調 op.23

いろいろと考えさせる2夜。「ポリーニ・パースペクティブ2012」以来4年ぶりとなるこのピアニストの来日リサイタルは約2週間に3回というゆったりしたスケジュールのもとに行なわれたが、そのうち初日(9日)と最終日(21日)を聴く。
ところで、9日の初日曲目が「演奏者の強い希望により」変更されたとカジモト・イープラスからの案内で知ったのは9日よりそれほど前のことでもない。前半のシューマンが聴けなくなったのは残念ではあるが、変更によってメインプログラムに据えられたドビュッシー『前奏曲集第2巻』はもとより好きな曲であるし、21日と重複するので2回聴くことになるとは言え、日による演奏の違いを楽しむと言う手がある。

9日。ポリーニにとっては初めて弾くホールであるミューザ川崎、開演ブザーが鳴ってからかなりの時間経過の後にステージに登場。小股で足早なその歩行は依然軽快ながら、随分背中が丸くなって小柄になった感。近年病に臥したとの話もあり、そのためなのか相当に老けた印象も持つ。

1曲目の『前奏曲 嬰ハ短調 op.45』が始まると、その音は依然としてポリーニのそれだ、と感じ入る。幾らか地味にはなったものの輝かしく透き通り、そして柔らかくて深みのある音。この独特の音はポリーニのそれであると同時に、今回も持ち込まれたピアノの調律師アンジェロ・ファブリーニのものでもあるだろう。スタインウェイでありながら、音が明らかに違うのだ。

しかし、演奏自体にはいささか疑問符は付く。近年のポリーニの演奏の特徴として、フレーズの最後まで明確に弾き切らずに先に進みたがる、もっと言うと「つんのめる」傾向がままあるのだが、この日の先述曲と『舟歌』は明らかにその癖が出ていた(細かい話だが、後者では左手の伴奏音型の弾き方が以前より単調になっていたことも気になる)。しかし、第3曲目の『2つのノクターン op.55』からは落ち着きが出て来て明らかに本調子になっているのが分る。
それにしても思うのが、齢74となった今でもポリーニは訳知り顔な「円熟」などしない、と言うことだ。この場合の円熟とは、意識するにせよしないにせよ作品を自身の側に引き寄せる、いわば「自己を祝福する」かのような態度、というほどの意味である。今でもこのピアニストの姿勢は極めて厳格であり、老いを理由とする緩みや恣意性のある解釈を潔しとしない。
だが、こうも考える、技巧が衰えを見せた分それを精神でカバーしようとせんがために、それが場合によっては過度の力みや先述の「つんのめり」に繋がる、と。既に結論めいた事を書いてしまうが、今現在のポリーニが難しいところにいる、と筆者などが思うのはこのバランスだ。技巧は衰え、しかし円熟を否定するポリーニ。
尚、この後の『子守歌』は感傷性のまるでないハードな解釈で、それは前半最後のいわゆる『英雄ポロネーズ』でも同様で、多少の瑕など構うものか、と言わんばかりに豪壮に弾き進むポリーニに「満身創痍」という言葉が脳裏をよぎる。いや、決して否定的な意味ではない。若き日より変わらぬこのある種の倫理観に圧倒されたのだ。

後半はドビュッシーの『前奏曲集第2巻』。ポリーニがまだ録音していない曲である。ちなみに録音している第1巻においては、ドビュッシーの象徴主義的な側面が浮き上がる、というよりも極めてリアリスティックな解釈で、別の言い方をすればまるで古典派のようなドビュッシーだと感じたものだが、当夜のこの第2巻では、逆に現代音楽を聴いているようだ(ちなみに曲間にインターバルをほとんど入れずほぼ一気に弾いた)。
しかし、第2巻は第1巻よりもより抽象的で非ロマンティックであり、これより後の『12の練習曲』に繋がるようなモダニティをさらに感じさせるため、ポリーニが狙ったのかは知る由もないがこのザッハリヒな解釈も腑に落ちる(とは言え随分と弾き急ぎ過ぎだと思うが…)。
予想通りと言うべきか、<風変わりなラヴィーヌ将軍>や<ピックウィック卿を讃えて>には笑いがない。しかし、問題は演奏者の解釈の方向性への説得力云々ではなく、やはり技巧と思う。
今のポリーニとしてはよく弾けているのは疑う余地はないけれども、音の階層に立体感があまりない。音が濁る(<交代する3度>などに顕著)。終曲の<花火>では、例えば終結のラ・マルセイエーズの断片が聴こえてくる箇所は「de très loin」(遠くから)の指示にも関わらず遠くから聴こえて来ない。平板である。

加齢によって技巧が衰えるのは当然であるし、それをあげつらっても意味はない。しかし、ポリーニというピアニストの音楽は、その技巧の完全性と切っても切れないものとしてある。技巧が衰えた分、そこに他の何かが加わったのか、と問われるといささか答えに窮さなくはないか? 筆者は人並みにポリーニのファンである。であるから、よりそう思う。

アンコールはドビュッシーの前奏曲集第1巻から<沈める寺>とショパンの『バラード第1番』。前者の壮麗で深々とした和音の冴えはさすがにポリーニと思わせたし、恐らく必ずアンコールで弾くのではないかと思われる後者の「血肉化」の度合いは稀に見るレヴェルではないか。つまり、アンコールでは掛け値なしに究極の音楽が聴けたと思った。

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21日も基本的な印象は同様。前半のショパンでは『スケルツォ第3番』が圧巻。『幻想ポロネーズ』は今の枯れたポリーニの持ち味と楽曲の世界が上手く合致した名演だったし、後半のドビュッシーは明らかに川崎よりもすばらしかった(但し<風変わりなラヴィーヌ将軍>では暗譜が飛んだためか、曲が始まった少し後に止めずに冒頭に戻って繰り返した)。全体に落ち着きと技巧の安定度が増した感。クリアな音響が細部を白日の下に晒してしまうミューザ川崎よりも豊かな音響が演奏を助けるサントリーホールが今のポリーニには合う、ということは絶対にある。アンコールは川崎と同じ2曲。

演奏は、「音」だけを聴くものでもないし、反対に「人」とその背後にある何物かを聴くだけのものでも、もちろんない。一般的にはその両方だが、ポリーニの評価はどちらかに寄りがちになる、というのはこの天才の宿命なのか。

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