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サマーフェスティバル2016 ザ・プロデューサー・シリーズ 板倉康明がひらく 耳の愉しみ スバラシイ・演奏|大河内文恵

summerfes2016サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2016 ザ・プロデューサー・シリーズ 板倉康明がひらく 耳の愉しみ スバラシイ・演奏

2016年8月25日 サントリーホール ブルーローズ
Reviewed by 大河内文恵(Fumie Okouchi)
写真提供:サントリー芸術財団

<演奏>
板倉康明(指揮)
藤原亜美(ピアノ)*
神尾真由子(ヴァイオリン)**
東京シンフォニエッタ

<曲目>
ピエール・ブーレーズ:デリーヴI
オリヴィエ・メシアン:7つの俳諧*
~休憩~
ベネト・カサブランカス:6つの注釈―セース・ノーテボームのテクストによせて(日本初演)
ジョルジ・リゲティ:ヴァイオリン協奏曲**

サントリー財団サマーフェスティバル、プロデューサー・シリーズのうち、板倉担当の初日を聴いた。前半2曲はブーレーズとメシアン。ブーレーズは1984年、メシアンは1962年と、ともに前衛音楽が全盛だった時代の楽曲である。演奏が始まった瞬間から、とても懐かしい気持ちがした。いずれの曲も生演奏を聴くのは初めてだったが、80年代90年代に「現代音楽」を聴いていた筆者にとっては、「懐かしい」の一言だった。板倉はなぜこの2曲をシリーズの前半に選択したのか、ずっと考えながら聴いていた。

その答えは、カサブランカスの曲が始まってすぐにわかった。「今」の「現代音楽」はこれなのだ。それゆえ、ブーレーズもメシアンもすでに「古典化」された現代音楽となって聴こえたのだ。その違いはどこにあるのか。

「前衛」音楽によくみられた、旋律・和音・構造的な音楽などへの徹底的な拒絶は、「今の」現代音楽ではかなり和らげられており、断片的に旋律らしきものが聴こえたり、和声的な響きが織り交ぜられたりする。とはいえ、弦楽器でいえば通常のボウイングではない弾きかたを多用するなど「現代的」な音遣いは多用されている。カサブランカスの音楽にあって前衛音楽にないのは、洗練性と身体性である。さまざまな「音楽的」要素を拒絶しつつ音楽を創ろうとすると、どこかに粗さがでる。いや、当時は「粗い」とは思わなかったのだが、「今の」音楽と比べてしまうとその差は歴然としている。また、わかりやすいリズムや構造を拒絶すると、ノリの良さを確保することは難しくなる。さらにいえば、カサブランカスの音楽にはわざとらしさや狙った感がなく、きわめて自然体なのである。これはおそらく、ブーレーズとメシアンを参照点として聞いたことによって、特徴が際立ったということであろう。

音楽をスポーツに喩えるのはあまりよろしくないと承知の上でいうが、「今の」現代音楽を聴いていて、最近のフュギュア・スケート事情が頭に浮かんだ。現在のトップ選手たちは4回転ジャンプを跳べるかどうかではなく、その完成度をどこまであげられるかで凌ぎを削っている。助走ではなくステップから直接跳ぶ、空中姿勢の美しさを追求するなど1つ1つは小さな点であろうとも、それらを積み上げることによって世界最高点を叩きだす武器になる。「今の」現代音楽もその域に達しつつあるのではないか。これはカサブランカスだけを聴いていたらわからなかったかもしれない。プロデューサーに仕掛けられた罠にまんまと嵌まってしまった。

この演奏会の仕掛けにはまだ続きがあった。リゲティの『ヴァイオリン協奏曲』である。スコアを見てみると、細かい音符でびっしり書き込まれ、ソリスト以外の楽器がすべて別の動きをしている第1楽章は、細かいフレージングや急速な強弱の交代など、見ただけで卒倒しそうになる難曲である。ほんの一瞬でも意識が緩んだら、断崖絶壁から真っ逆さまに落ちて二度と這い上がれない険しい山道を疾走し続けるといった緊張感がスコアから感じられる。これを神尾は一瞬の危なげもなく弾ききったが、話はそれだけではない。彼女は、ソリストという自分の本分を全うするだけでなく、他のパートをすべて把握し、同時に演奏している楽器とただならぬ親和性をみせた。特に第2・3・4楽章では、ソリストというよりアンサンブルの一員として演奏するという姿勢が顕著だった。

その延長上で第5楽章を聴き始めたら度胆を抜かれた。曲全体の中で一番高揚する楽章であることを計算に入れたとしても、ここまではただの前振りだとでもいうかのように、神尾のヴィルトゥオージティが爆発した。技術的にも表現の上でも、演奏の勢いや気迫という意味でも、これ以上望むべくもないというより、心の中であんぐり開いた口が塞がらないまま演奏が終わった。今日ここに来て本当によかったと心底思った瞬間だった。

6つの注釈リゲティ ヴァイオリン協奏曲