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アレクサンドル・タロー J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲|藤原聡

タローアレクサンドル・タロー J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988 ~アリアと30の変奏〜

2016年3月2日 トッパンホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種( Kiyotane Hayashi)

<曲目>

J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988~アリアと30の変奏〜
(アンコール)
ドメニコ・スカルラッティ:ソナタ ニ短調 K9

アレクサンドル・タローの実演は今回が初である。録音に聴くこのピアニストの特徴は、軽やかでありながらも陰影に富んでおり、どこか暗さがある。あるいは次に何をするのか読めないようなところもある、要はなかなか一筋縄では行かないという印象があるのだが、さて当夜はどのような『ゴルトベルク』を聴かせてくれるのか。曲目はこれ1曲。

舞台に登場したタローは実にスラッとした痩身で、黒いスーツがすばらしく映える。1968年生まれとのことだが全く年齢を感じさせない(この「年齢不詳さ加減」!)。その身のこなしはどことなく優雅で、重力というものをあまり感じさせず、そしていささか浮世離れしたオーラを醸し出す。なぜ冒頭からこういうことを書いたのかと言えば、その演奏が風貌及び雰囲気とまさに同様の印象をもたらしたからだ。

その音質は実に透明でかつ色彩感に溢れ、モダンピアノ(当夜はヤマハを使用)を用いながらも、ハープシコードによる演奏を聴き慣れた聴き手にもすんなり受け入れられるであろうよい意味での「軽さ」がある。言うまでもなく、ピアノによる良くも悪くも教条主義的なバッハ演奏の対極にある。各変奏での装飾音も入るが、やり過ぎずに趣味が良く自然。表情の多彩さ、声部の生かし方もこれまた変奏毎に自在を極め(ペダルの使い方も大変に入念)、その都度異なる風景が眼前に立ち現れるようで退屈する暇もなく、しかもこれ見よがしなわざとらしさがない。なんと言うか、良い意味で、まるで息を吸ったり食事をしたり歩いたり、と普段の日常生活での所作のような「意識すらしていない当たり前の自然さ」でコトがすいすいと運ばれていくような印象なのだ(演奏中の所作も、中空を切る手の動きなど視覚的にノーブルなんですね)。相当に個性的なことをやっているにも関わらず。

但し、聴き手によってはこう思うかも知れない。統一感がない、と。この観点から聴くと、それこそグールドが言うような「パルス」があったのかどうか(この「パルス」自体、ある意味曖昧な概念だが)。変奏毎に「分裂」し過ぎていると捉える向きがいても不思議ではない。前半は比較的カッチリ弾いていたが、後半はかなり奔放だったりする。アリアも最初と最後では相当に違う。

しかし、この夜のタローの『ゴルトベルク』は、一見優雅で自然な趣ながらも、聴き手の数だけ異なる捉え方ができる、という意味では間違いなくある種の「起爆装置」たりえている演奏であるし、それはむろん凡庸な演奏の正反対の座標にある。筆者としては、「面白い!」とは感じながらもどこかタローの「個」が出すぎているような印象もあり、それが何らかのまとまったイメージに結びつかなかったのも事実。

これもこう捉えることにしよう、優れた芸術は容易に一元化できないような複雑さをたたえている、と。何か、このピアニスト個人の隠れされたパーソナリティの複雑さにその演奏及び印象の根源がある気がする。優雅な立ち居振る舞いは意識せざる屈折した「プレシオジテ」の一種であったりするのか…。

アンコールはD・スカルラッティの『ソナタ ニ短調 』K.9。これは掛値なくすばらしい(と手放しで書いてしまうということは、本プログラムに必ずしも合点が行っていないということの証左になっているが…)。このK.9、言うまでもなくモダンピアノではホロヴィッツのオハコであった曲だが、ここでのタローも負けてはいない。タッチの変化による多彩な音色、トリルの煌き、繊細な強弱の扱い、見事な間の取り方…。いやはやセンスの固まりだ。これには脱帽。

当夜の聴衆、かなり喝采は大人しかったと思う。恐らく、当夜の『ゴルトベルク』とは自分にとって何だったか? どう聴いたか? とそれぞれが自身の内に反芻していたからなのは間違いない。

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